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プライドに、高い低いはない。持つか持たないかだ

お世話になってます!アルテリーヴォ和歌山の宇都木です!

先日まで行われていた冬季オリンピックには感動させてもらいました。
なかでも平野歩夢選手の「人類史上最高難度のルーティン成功」の響きはカッコ良すぎました。
それに比べて僕が毎日やっているルーティンはせいぜい、2ℓペットボトル水を飲み干す、くらいです。。


さて今回はプライドについて。岡本太郎さんの本に書かれていた言葉をきっかけに、少し考えてみました。それがこちら。

「ぼくは、プライドというのは絶対感だと思う。
自分がバカであろうと、非力であろうと、それがオレだ、そういう自分全体に責任を持って、堂々と押し出す。それがプライドだ。」
「自分の中に毒を持て」

この「絶対感」という言葉が、わかるようなわからないような。

僕が歩んできたサッカー人生は、エリートなんかとは程遠かったんですが、小、中、高と所属したチームは、それなりに強く、ある程度中心選手だったのかもしれません。そして進んだ大学はその年に日本一になるようなチームで、そこで3年生から試合に絡むようになり、そして大卒で奈良クラブに加入し、開幕スタメンに選ばられ、4節にはJFL初ゴールを決めました。

まあそんなこんなでいつの間にか、「プライドの高い奴」になっていました。

結果は出したんですが、あまりチームメイトから認められている感じはなく、むしろよく怒られていました。
実力はあるのに、なんでこんなに叱責されるんだろう?と聞く耳を持たず反発ばかりしていました。
徐々にボロが出てきて、後半戦はほとんどメンバー外に。
全く結果を出せずに大卒1年目が終了。

このままじゃダメだと思い、2年目を迎える時、僕はそのプライドを捨てた。意識的に、耳の痛いことも全て聞き入れた。その結果、多くのことを吸収でき、選手としても人としても、少しずつ余裕を持てるようになった実感がありました。(公式戦は1試合も出場できませんでしたが笑)

そして太郎さんの本を読んだいま、気づきました。

1年目までの僕はプライドが高かったのではなく、プライドを持っていなかった。
僕が持っていたのはプライドではなく、コンプレックスだったと。
単純に、サッカーの実力が足りていない自分を受け入れられない、信じたくないという事実が、コンプレックスになっていました。

そして2年目、プライドを捨てたのではなく、プライドを持った。実力がないことを自認し、この未熟さを含め自分なんだと受け入れた。

自分はこんなはずじゃない、と強がっているうちは、それはコンプレックスでしかない。
これが自分、いやこれこそが自分なんだと容認し、曝け出すことで、コンプレックスはプライドに変化する。
要するにプライドは、持つか持たないか。「絶対感」である。

プライドに、高いも低いもなければ、捨てるも拾うもない。なぜならプライドは、他人のそれと比べて値が変動するような相対的なものではない。
馬鹿にされようが、けなされようが、自分はこういう人間なんだと納得し、前を向いて生きていくことが「プライド」なのではないかと思いました。
読んでいただきありがとうございました!

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