誰か怒ってくれませんか
お世話になります!アルテリーヴォ和歌山の宇都木です!!
先日Twitterで流れてきた、こちらのnoteを読みました。
共感した部分が多く、最近考えていたこととリンクしたので、自分の言葉で書いてみようと思います。
最近僕は、練習中にチームメイトから怒られることが減ったなと感じていました。
サッカー界には、序列というものが存在します。
実力や結果、過去の実績、年齢、在籍年数、キャラクターなどの掛け算によって、チーム内での立ち位置が何となく定まってくる。
その値の大きさと味方から信頼は比例し、その人がチームに与える影響は大きくなっていくんだと思います。
奈良での僕のチーム内序列は下の方だったため、怒られることが多く、それがとても悔しかった。ただそれらがあったから僕は変わることができたのは間違いありません。
生ぬるいプレーを一回でもしようもんなら怒号が飛んでくるあの緊張感は、公式戦さながらの痺れるピリつきだった。
そして歳や経験を少し重ねた今、「怒ってくれる人」が少なくなり、当時のような緊張感を持ちながらサッカーできていないのがなんだか寂しい。
基本的に人は、怒られることを嫌うし、怒られると腹が立つ。だから怒られないのは良いことなんじゃないか?と思うかもしれないが、僕は逆だと思う。
「怒る」という行為には責任が伴う。怒ったくせにお前もできてねーじゃん、と思われる可能性があるし、嫌われるリスクも、当然ある。
それらを背負ってまで言う「怒ってくれる人」の価値はとても高い。
「言ってもらえるうちが花」とは本当にそうで、こいつには言っても無駄だと思われると、その人は離れてしまう。聞く耳を持つというのはめちゃくちゃ大事なスキルなんだと思います。
そして「怒ってくれる人」は、2種類の気づきを与えてくれる。
無自覚への気づきと、自覚への気づきである。
無自覚への気づきとは、当事者が自覚してない事を気づかせてくれるものである。その指摘は、知識になったり、思考の幅を広げてくれる。
もう一つが、自覚への気づき。
これは、当事者が気づいているであろう事をあえて怒り、危機感を感じさせるもの。
僕自身には、この危機感が足りてないように感じることがある。
もし公式戦でこんなプレーしてたらやられる、と自覚していても、己に喝を入れきれない感じがもどかしい。
学生時代の避難訓練に本気で取り組まなかったように、自分が自分に与える危機感なんて知れている。
俺らが今やってるのは訓練なんかじゃなく、火事現場でのサバイバルなんだと気づかせてくれる人がいるチーム、そういう雰囲気が練習からプンプンしているチームはきっと強い。
何でもかんでも怒ればいいと言っているのではない。
いちサッカー選手として、集中力の欠如はあり得ないし、目の前の敵に簡単に走り負けて良いわけない。
誰であろうとそんなプレーしてる奴には怒るべきだ。
「怒らない」ことは、責任からの逃げ。
おれはお前を怒らないから、お前もおれを怒るなよ、といった風に。
序列なんか関係ない。いや、グランドの上では序列など存在しない。
ピッチに立つ者として、最低限やらなくてはいけないことができていない時には、ちゃんと怒れる人間でありたいし、怒ってくれる人を大事にしたいと思ったのでした。
読んでいただきありがとうございました!