おばけ同好会活動記録|全生庵で幽霊画を見た!(三浦)
全生庵
暑い夏の日に、幽霊画を見に行った。
東京は谷中にある「全生庵」というお寺は、所蔵幽霊画の展示を毎年行っている。大学院で論文を書いていた時から、ずっと本物を見なければと思っていたのだけど、ようやく行くことが出来た。
全生庵には江戸時代の落語家 三遊亭円朝や、その後援者 藤浦周吉らによって蒐集された幽霊画が数多く収蔵されている。
三遊亭円朝は『牡丹灯籠』や『真景累ヶ淵』といった名作怪談噺を作った名人落語家だ。江戸時代当時のお客さんは円朝の怪談噺を聞いて夜眠れなくなったり、厠に行けなくなったりしただろうか。
展示室はお寺の二階にあった。入り口前には販売しているグッズが並んでいた。灯りを落とした会場内では静かに幽霊画が佇んでいた。
夏の板の間は冷たくて気持ちがいいけれど、会場内は冷房が効きすぎて寒いくらいだった。
足のない幽霊
伝・円山応挙『幽霊図』
この作品は、足のない幽霊で一番有名なんじゃないだろうか。
何度も資料で様々なバージョンの応挙の幽霊図を見たことがあったが、実物からはこの作品自体が経過してきた時間や、この作品を見てきた人々の時間が漂っているように感じた。本当に応挙の作品であれば、1700年代に描かれているわけで、この絵を見た多くの人はもうこの世にいない。
円山応挙の幽霊画は、それ自体が幽霊のような存在であるそうだ。全生庵の作品も例に漏れず、真筆であるとされる落款も印章もないが、応挙筆と伝えられているよう。
だが昨年、青森の久渡寺が所蔵している『反魂香之図』を応挙の真筆としたというニュースがあった。この作品は応挙筆(とされる)の幽霊画の中でも特に存在の半透明さを感じられる作品なので、機会があればこちらもぜひ見にいきたい。
というか、そもそもなぜ私たちがイメージする幽霊画の多くは足がないのだろうか。今回は諏訪春雄氏による『日本の幽霊』を参考に、足のない幽霊の成り立ちや女性の幽霊について書き残しておく。
まず諏訪氏は、"幽霊"は肉体と分離して、魂だけが彷徨うことの出来る状態であって、肉体を伴うものは幽霊ではないと述べている。例えば中国のキョンシーには精神はなく肉体だけが動くため、妖怪の類である。たとえ記憶のあるキョンシーが現れたとしても、それは死体の蘇りであって、幽霊ではないと言えるだろう。
また、諏訪氏は幽霊が本来住む場所である他界と、神や妖怪の住む場所である異界について、以下のように述べている。
"異界"は人間が日常生活をいとなむ空間とかさなり、あるいはその周辺にひろがる非日常空間をいう(空間的な概念)。これに対し、"他界"は人間が日常生活をいとなむ空間とかさなり、あるいはその周辺にひろがる非日常空間であるとともに、人間が誕生前および死後の時間を送る世界である(空間的・時間的な概念)。
つまり、異界とは内に対する外の語であらわされる関係概念であって、その位置は相対的に移り変わっていく。日常生活をいとなむ空間が、人間がコントロール出来ない闇≒夜と共に変化し、異界になるに連れて神や妖怪がやってくる。異界の"時間的概念"というのはこのような変化のことを指していると考えられる。いわゆる逢魔時(黄昏時)も時間的概念だ。
加えて、諏訪はこの日本人の他界観・異界観は葬制と深い関わりがあると述べている。
諏訪氏は中国の説話等ではなく日本種の幽霊が現れたのは『今昔物語』であると述べている。平安時代というのは社会情勢が非常に不安定な時代であった。仏教が広まり始め、火葬も広まり、社会システムが作られていくが、常に死は隣にある、まさに過渡期の社会不安。しかし、"足のない幽霊"は平安時代よりももっと後、江戸時代に現れ始めた。これを諏訪氏は絵巻や仏教画にて描かれた、雲に乗ってやってくる幽霊が関係しているのではないかと考え、中世の時代の日本画の手法において、雲は以下の役割を持っていたと述べている。
そして、浮世絵や歌舞伎等によって、足のない幽霊のイメージが一般に普及していったのではないか、というのが諏訪氏の説だった。
私は怪談話に出てきた幽霊に足がないと作者の存在を感じてしまう。足がないのは日本の幽霊の"イメージ"であり"創作"の結果だと思っているが、私には霊感がないので実は本当に足がない可能性もまだ残されてはいる。
女性の幽霊
池田綾岡『皿屋敷』
解説によると、描かれている女性の幽霊は『播州皿屋敷』に登場するお菊だそうだ。襖に菊が描かれている。
展示室で周りに並んでいた幽霊画の女性の多くがおそらく死んだ時の姿(顔がひどくやつれていたり、骨が浮き出るほど痩せていたり)なのに対して、この作品は美人画のように描かれており、一際目を惹かれた。この女性が菊なのだとすると、爛れた顔を隠しているのかもしれないが、それにしてもその所作は美しい。消えかかっている細い右手の儚さも幽霊画とは思えない美しさを備えている。
美術史には明るくないので、あくまで私の印象に過ぎないが、1800年後半から1900年前半に描かれた幽霊画は美人画のような雰囲気の作品が多いような気がする。般若のような顔をしていたり、髪が乱れていたりしない。凛とした顔で、髪はきちんと結えられ美しく、薄幸な儚いイメージで描かれている。
絵画や小説等で女性の幽霊が多い理由を、諏訪氏は『日本の幽霊』の中で以下のように述べている。
私はこの説にはかなり疑問がある。本来持っている自然の性とは一体何のことか。仮に女性は妊娠出来る身体を持っており、新しい命を生み出すことが出来るからだとして、それは"幽界との交流を自在"とする根拠になるのだろうか? 百歩譲ってどういうわけか"女性の本来持っている自然の性が、男性以上に幽界との交流を自在とし、亡霊として出現する機会"が多いとして、なぜ幽霊になった途端恨みを晴らすためにひどいことをやってのけたり、ひどい見た目で現れる必要があるのか。幽霊というより、怨霊のように描かれることが多いのはなぜか。
私個人の考えとしては、中世から近世にかけて、女性の幽霊作品が多かったのは、男性が女性に対して「お〜、こわ」と言う為の装置だったんじゃないかと思う。「女の敵は女だね」と言うやつと同じ現象なんじゃないだろうか。
実際、全生庵で見た日本画は、収蔵されている作品(作家)に偏りがあるとはいえ、近世にかけて明らかに女性の幽霊の描かれ方が変わっていた。中世ではおどろおどろしく、醜い見た目をしていたが、近世の幽霊は死してなお美しく、慎ましい現れ方をしていて、まるで美人画のようだった。
なぜ幽霊画に女性が多いのか、どう考えても明らかじゃないかと思う。目的があるのだ、幽霊を描くということの他に。無意識的にか知らないが、自分は見る側だと思っている画家が、見られ・コンテンツにされる側を描いているのだ。諏訪氏がこの言説を書くにあたって、中世・近世における画家の性別比率について言及していないのもおかしな話だ。
墓地を歩いて帰る
見たかったたくさんの幽霊画を見たにも関わらず、特に印象に残っているのは、展示会場の床だった。人が歩くたびにギシ…ギシ…と床が音をたててたわんでいて、私はそれが妙に気に入った。風でゆらりと揺れ、足のない幽霊たちと、床をたわませながら歩く生きている人間たちの対比が、より一層幽霊の存在の重みを想像させた。
全生庵の裏には墓地もあり、せっかくだから(?)と覗いてみることにした。三遊亭円朝はもちろんのこと、山岡鉄舟のお墓もあった。狭い墓地で観光ツアーの団体が鉄舟の墓碑を写真に収めていた。
うだるような夏の熱気の中、谷中霊園の中を通り、帰路についた。
お盆の時期のあの夏の空は、あまりにも日本の幽霊と相性がいい景色だ。