鳥公園#16『ヨブ呼んでるよ -Hey God, Job’s calling you!-』観劇レポート|蜂巣もも
JR八王子駅から、鳥公園#16『ヨブ呼んでるよ -Hey God, Job's calling you!-』が上演されるいちょうホールまでは何度も歩いたことがあるが、いつもどこか暖かな印象がある。整備され、模様の施されたきれいな路面、その道沿いには余すことなく店舗が並び、所々に花を咲かせた街路樹が街に健康的な色合いを施す。
必要なものはだいたいの物ならすぐに手に入る街。
この道を歩くとほっと安心すると同時に、緩慢で、安心しすぎているのではという疑念が到来する。
夜になると、その緩慢さが消えて、客引きが道に広がり、酔っ払いが彷徨う。健康的だった店舗は暗く沈む。
その時私はなぜかまたしてもほっとする。
舞台は迫り(舞台の床の一部をくりぬき、そこに昇降装置を施した舞台機構)によって、レゴブロックで作った城のように複数の階層が組まれ、床面に黒いゴミ袋のようなシートが敷かれている。その上にはおもちゃや人工芝が散らばる。
黒のシートが敷かれているにも関わらず、舞台の印象は軽く、明るく、風通しがよい。
いちょうホールの小ホールは音楽を十全に聴くためにしつらえられた劇場なため、音がこもる素材は廃され、音の響く木の床と、舞台背面には大きな反響板が光る。三浦さんの演出は風通しの良いいちょうホールとともに進行していった。
(ちなみに、素舞台の状態のいちょうホールはこちら↓)
戯曲の構成は、主人公希帆が夢や現実の部屋などを行き来することで、時間をゆがめながら進行する、西尾さんが得意とする手法である。
奇妙な時空にも関わらず、各シーンは迫りで区分けされた場所を移動することで切り替わり、見やすく整理されていた。このシーンはこちら、このシーンはこちら、というように。
また、コミカルな衣装とともに出入りする役は、コンサートの歌手のように登場し、照明のピンスポットに鮮やかに照らされ、くっきりとした印象を持つ。
見えにくいところがないよう、しっかり整理されていた演出にも関わらず、わたしはぱっと見ただけでは作品のことがよく分からなかった。
とくに、主人公の希帆をどう見ればよいのか
(悲劇の渦中の人物なのか、どれくらいの暴力に晒されているのか)
夢の中によく出てくる「たかをちゃん」は何なのか、なぜ夢の中の人物でなければならないのか、という点である。
戯曲の進行に耳を澄ませても当然そのような疑問を持って然るべきなのだが、整理された演出によってすっきりしていた。
謎が通り過ぎていくような感覚だった。
戯曲を読んでみる
他のシーンでも、西尾さんの他の戯曲に比べて、主人公希帆を傷つける言葉が多い。金田(兄)は直接的に傷つけ、弥太郎、美和子は間接的にずけずけと傷つける。
前述したシーン構成以上に、暴力的表現や言葉はとくに極められていて、非常に読みごたえがある。この戯曲の勘所のような気がする。
これらのシーンで起こる暴力について、DV加害のように、暴力は目的ではなく、自分の思い通りに相手を支配する手段として使われるとすると、加害者と希帆の間の「繋がり」、また社会的背景から、鏡のように映しだされて引き起こされるものだと考えうる。
ここからは私自身の解釈だが、もう少し抽象的な存在(夢の中の人物や外部の声、ト書きも含めたすべて)自体が、相手の声であり、自分の声でもある、自他の境界が混ざりあったものなのではないだろうか。
対話相手である、たかをちゃん、金田、美和子や、遠くの弥太郎すらも思い出す、あるいは想像することで希帆の声になりえて、それぞれが希帆自身の存在を否定しねじ伏せることで、苦しみはより一層強いものとなっているような。
兄と妹の性的関係が過去の事実以上に、希帆を苦しめる「想起/トラウマ」によって苦しむところまで描かれているとすると、この内容には非常に恐ろしく思う。
観劇のあとあじ
しかしそれでも、観劇のあとあじのような印象はしっかり残っていて、西尾さんの描く世界に対して、前述の衣装や役柄が光り、ポジティブに表現しようという意志、表明を感じた。
それは三浦さんの演出や、稽古への向き合い方そのものだったのではないかと思う。
また2022年5月に行われたいくつかのワークショップは、作品が提起する問題を、観客と掘り下げる場となっていて、その形での外部への接続の仕方は興味深い。
『ヨブ呼んでるよ』は公演以外での成立の仕方もありうるのではないだろうか。