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読書感想文#2 二つの「資本論」を読んで

ここ最近で二つの「資本論」と名の付く本を読みました。両著書ともに、私のこれからの生き方のヒントを与えてくれるものでした。
今回は、その二つの著書を読んだ感想について記してみたいと思います。その二つの著書はこちらです。

*『人新世の「資本論」』 斎藤幸平著 2020年、集英社新書
*『風景資本論』 廣瀬俊介著 2011年、朗文堂

『人新世の「資本論」』は新書大賞2021を受賞した本で、現在の資本主義の問題を新しい解釈のマルクス資本論で解決するヒントを与えてくれる内容です。経済思想家である斎藤幸平さん(34歳!若い!)が書かれた本です。

そして、『風景資本論』は私が普段から勝手に師として仰いでいる環境デザイナー(本の中ではランドスケープデザイナーとして記されています)の廣瀬俊介さんが書かれた本で、「風景」を人間の生活と地域社会を持続可能にする基である「資本」として捉え、その在り方を考えていく内容です。

まず、『人新世の「資本論」』では、資本主義が引き起こしてきた問題を取り上げます。資本主義を押し進める先進国の豊かな生活のために、どれだけの犠牲が払われているかを教えてくれます。そして、その資本主義を継続すること(=経済成長)を前提としたSDGsが、いかに机上の空論であるかを語ります。
私はこの時点で、とっても腑に落ちてしまったのです。経済成長と気候変動対策を両立することが、すごく慢心的なものだとずっと感じていたからです。多くの方が心当たりがあると思うのですが、どんなに良い仕事をしていても、どこかの時点で必ずコストの問題にぶち当たり、結局経済を優先させるという場面に何度出くわしたことか。

そして資本主義は、生産性を重視するがために人間の労働を貧しいものにさせて、大量消費大量生産のために自然を蝕み続けます。
私は、普段の仕事では資本主義からかなり足を洗っている方の人間だと思います。その立場から見ると、資本主義の中で働いていたことがどれだけ虚無的だったかを感じます。まるで、ゲームを与えられてそれをクリアするために徹夜をしてしまうような感覚です。その時は必死だし、何かを成し遂げた時の達成感は得られるのですが、客観的に見るとある種の中毒性を帯びているように思うのです。もちろん、そんな人生もアリだとは思うのですが、それによって多くの犠牲が払われたり自然を蝕んでいることを考えると、やっぱり虚無的なものだと思うのです。

アブヤラシ農園

私達の暮らしを豊かにするためのパーム油を生産するため、熱帯雨林からアブラヤシ農園と姿を変えたインドネシアのスマトラ島風景(写真引用:https://www.wwf.or.jp/activities/basicinfo/2484.html)

そんな資本主義と決別しつつ、気候変動等問題に立ち向かっていくための概念として挙げられているのが、「コモン(共)」という言葉です。「コモン」とは、社会的に人々に共有され管理されるべき富のことを指すと書かれています。自然という資本を、商品化したり国有化するのではなく、自分達の手で民主主義的に管理することを目指すというのです。なぜ「コモン」が資本主義と決別する上で必要なのかは同書を読んでいただければと思います。

ここで私は二冊目の『風景資本論』と結びつけたいと思います。本の中では、フランスのストラスブール市の例が挙げられています。この都市では、大気汚染の環境問題を、市民が声をあげ、考え、投資をして解決してきたそうです。まさに、ここに「コモン」という考えがあります。

ストラスブール

ストラスブール市街地風景(写真引用:https://blab.jp/blog/?p=4842)

私たちは、どれだけ自分の住む土地に関心を抱いて、声をあげてきたでしょうか。正直に言って、私はこんな町にしたいという想いはあっても、実際に行動に移したことなどありませんでした。その結果、都市部ではもうその土地固有の風景などは全くないと言っていいくらいに、地面はコンクリートで埋め尽くされて、鉄筋コンクリートや海外の安い木材の建物で覆い尽くされてしまいました。これが、自分達が声をあげてこなかった結果なのですね。

地域の自然や社会の持続可能性を考えていくことは、その地域の「風景」という資本を管理していくことです。本の中ではこのように書かれています。

自然と社会の関係を調える営みが重ねられて地域風景の固有性は確立、保持される。
地域固有の風景資本は、人間生活を健全かつ持続可能にしつつ域外の人々にとっての価値も生み、地域的、つまり特徴のある種々の産業振興の可能性を拓く。

そして、その担い手は市民であることが大事なのだと思います。行政や企業に任せていてはいけない、というのが今どんどんと失われつつある地域の風景をみての反省です。

私はこれからランドスケープデザイナーとして、コモンである風景という資本を管理していくことで、人間と自然の持続可能性を追求してゆきたいと思います。
まずは、私が拠点を移しつつある益子を中心に活動してみます。里山の風景が続いている益子町周辺でも、ここ数ヶ月間のうちにソーラーパネルが目につくようになり、ハウスメーカーが建てていると思われる安っぽい(失礼!)家が建ち並び、まだまだ山を切り崩して宅地造成しているような例を多く見ます。これは、風景を構成するものが個人所有となっていて、コモンの資本であるという意識や仕組みになっていないからだと思います。

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(里山を切り崩している造成している現場。何か建つのかは不明。写真は書き手による撮影。場所は益子町内ではありません。)

ランドスケープデザイナーとして力になるためには、『風景資本論』にあるようなその土地固有の風景の構成を読み解く力をつけることも必要ですし、声をあげるだけでなくそれを実行に移せるための力も必要です。まだまだ修行が足りませんが、今の時代でよかったと思うのは、『人新世の「資本論」』にも書かれているように、こう言った声をあげる運動を日本全国やグローバルの横のつながりによって学んでいくことができるということです。

自分が見たい風景を実現させるため、市民としてローカルで声をあげていくこと、それをグローバルにつなげていって実現すること、そんな生き方ができればと思いました。

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