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哲学的とはどういう意味か?

設計思考をマスターするには、私たちが日頃から使っている言語に潜むレイヤーを知り、それぞれの機能性を知る事が重要です。

とくに哲学思考力(メタ思考力)は設計思考をする上で非常に重要ですが、この哲学的な思考という点で明確に理解している人が少ないです。

今回はこの「哲学的」であることに対して解説していきたいと思います。

言語の4象限

まず以下の4象限をご覧ください。

哲学的な記述とは、上記の4象限でいうなら右上です(他のマスを解説すると今回のテーマから逸脱するので、今は右上のみにフォーカスします)。

視点が高くて視点が遠いというのがつまりメタ視点です。メタ視点とは経験から離れた視点のことであり、形而上界の記述です。

形而上とはつまり経験世界ではない、私たちが理性的に直感として認知できる世界のことです。

※ちなみに右下にあるアブダクション言語(視点が遠くて、低い)は、スピリチャル言語と言われており、これも一種の形而上の言葉と言えます。これはとても興味深いテーマで、また改めてじっくりお話していきたいと思います。

メタ言語は「経験に依らない記述」である

メタ、またの名を形而上の言語は経験に依存しません。対する非メタ、またの名を形而下の言語は経験に依存します。

形而上の言語は上のマスで言うなら右側です。形而下の言語は左側です。私たちが日頃慣れ親しんでいるのは形而下の言葉で、私たちは経験に根拠を見出しながら考える傾向にあります。

しかし、実は私たちの価値観を支えているのは形而下だけではなく、むしろ形而上の価値観の方がその役割を果たしています。例えば、私たちが地球が丸くて自転しているということを直感的に知っています。

もちろん、この事実に関しては、先人たちが様々な検証をしてきたこと(経験)で実証されたのですが、今では検証の余地がない紛れもない事実です。つまり形而下から上昇し、形而上の知になったということなのです。

メタ知は演繹思考で導かれる

メタ知とは経験によらない論理式によって導き出されます。この経験によらず、論理だけで結論に導く方法は演繹法と呼ばれています。例えば:

1.太郎は日本人である。
2.日本人はアジア人である。
3.ゆえに太郎はアジア人である。

のような三段論法で導きだされた絶対的な記述のことを指します。

ちなみに下記も実は演繹的記述です:

1.太郎は日本人である。
2.日本人はヨーロッパ人である。
3.ゆえに太郎はヨーロッパ人である。

これの結論は実は論理式的には間違いではないです。しかし、この結論(「太郎はヨーロッパ人である」)は正しくはありません。従って、この論理式は偽であるので、哲学的な記述ではありません。

つまり哲学的記述とは、論理的式によって導きだされた記述かつ、すべての前提条件が真であることが必要条件といえます。

この演繹的記述には経験は介入しません。そこにあるのは事実のみです。

もちろん事実の中には最初は経験を通して知るものもありますが、行く末は経験を介在させなくても事実と知ることができる演繹的記述は世の中には無数にあります(たとえば、「地球は自転してる」とか、「この世界は重力がある」とか、「1+1=2」であるとか)。

帰納法は「経験に根ざした記述」である

対する帰納法の記述(左側のマス)は、経験によって導かれる記述です。ここでの「経験」とは、リサーチや実験なども含まれます。例えば、以下をご覧ください:

1.太郎は日本人である。
2.日本人の9割は髪の毛が黒い。
3.ゆえに太郎の髪の毛は黒いだろう。

この三段論法で注目すべきなのは2です。この記述は経験に根ざしたものです。つまり統計的に9割の日本人の髪の毛の色が黒いということを記述しています。従って、太郎が日本人であるなら、高確率で髪の毛は黒いだろうという結論。

しかし、この結論が必ずしも正しいとは限りません。日本人の中には先天的に髪の毛の色が黒くない人もいるからです。つまり、私たちはこの帰納的結論は直感的に覆されうることを知っているのです。

経験していることが絶対的真実だとは限らない、往々にして覆されるということを私たちは知っています。そして反証されながら、さらに検証・実験を繰り返して真実に近づこうとする営みは帰納思考と呼ばれ、これこそが自然科学なのです。

(ちなみに、上記の「経験は往々にして覆される」という記述は演繹的結論です。)

哲学的記述は「世界のあるがままの姿」を解き明かす

ここまでのまとめをすると、哲学的記述とは、経験に依らずに認識される世界のあるがままの姿であるということになります。

(「あるがままの姿」とは、直感的に認識される世界と言っても差し支えないです。が、ここでの「直感的」は巷で使われている意味合いとは異なることは要注意です。これはまた機会を見て解説したいと思います。)

ちなみ俳句は究極の哲学的記述と言えます。

例えば、松尾芭蕉の「秋深き 隣は何をする人ぞ」は、一見経験的記述のように見えますが、これは哲学的記述です。具体的にいえば、「秋深まる中、隣人に対する慕情」というを記述した哲学的記述です。

もしここから、隣人に対して調べたり考察したら、この記述は俳句という枠組みから逸脱し、推測という帰納的記述に入っていきます。しかし、この句は、それ以上は立ち入らず踏みとどまっている。踏みとどまる事で、1つのあるがままの状態を表しているのです。

俳句は字数制限があることも哲学的記述をする上で相性が良い方法と言えます。

哲学的記述も覆されることは大いにある

さて、ここまでの説明を読むと哲学的記述は絶対的であるという印象を受けがちですが、決してそういうことはありません。哲学的記述も覆されることはありますし、実際覆され続けています。

これすなわち、あるテーゼに対するアンチテーゼ。そこから新たに導かれるジンテーゼという理性の本質的性向です。ちなみに二項対立のテーゼからジンテーゼに上昇することはアウフヘーベン(止揚)と呼ばれており、このブログでもたびたび登場しますので覚えておいて下さい。

ここまで「哲学的」であることについて解説してきましたが、ひと言でいうなら:

「あなたがそうである」と思う記述のこと

です。

経験に介入させることなく、「これである」と信じていることを記述する。こういうスタンスが哲学的なのです(同時に、それは検証の対象であるという寛容の精神も重要です)。

最後に、私が最近読んでいるガチの哲学的記述も紹介させてください:

「交換価値という相対的な抽象性から、仮想的経済の純粋な投機的段階へと金銭が移行するとき、この絶対的現実性は、金銭の現実ともなる。(中略)資本フローに対応する商品の交換がないというわれわれが置かれた状況にあって、金銭は、さらにずっと奇妙なハイパーリアリティを帯びる。

「悪の知性」ジャン・ボードリヤール

とても難解な記述ではありますが、演繹の束で織りなされた圧倒的記述ではないでしょうか。

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