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子育て支援事業に出会って

今回の「理事の顔」は、浜田美徳理事です。
浜田理事は、親と子のつどいの広場事業が横浜市3ケ所でスタートする初年度に、担当職員として伴走してくださった方です。ひろば愛に満ち溢れ、現場と共にいつも汗も涙も流してくれる熱血職員さんでした。
退職後にびーのびーのの監事をお引き受けいただき、以後、現在は理事として、まさに「居てくださるだけで私たちの元気の源」・・・となっている方です。

横浜市こども青少年局地域子育て支援課に勤務していた頃の浜田理事(後列左から二人目)

子育て支援事業に出会ったのは今から20年以上も前のことになるでしょうか。横浜市役所勤務時代、区役所での何年かの勤務の後、福祉関係の業務に異動希望を出して希望がかないました。
辞令交付式当日、健康福祉局の辞令交付式に臨みましたがなかなか呼ばれません。健康福祉局の辞令交付終了後、新組織の辞令交付が始まりました。それが「子育て支援事業本部」でした。

子育て支援事業本部は、平成15年(2003年)、横浜市役所が重要かつ緊急な行政課題に対応する目的で設置したものです。独立した組織として3年の期間限定で設置され、「子育てしやすいまち横浜」を目指すことを基本目標として掲げました。
辞令交付の際に、今まで聞いたことのない「子育て支援事業本部」(以下、「事業本部」)という名称を告げられたとき、どのような業務になるのか不安を覚えました。
これまでの子育て支援施策といえば、保育所整備など、仕事と子育ての両立支援が中心でした。しかし、在宅で子育てをしている専業主婦の子育ての不安感は高く、すべての子育て家庭が支援を受けられるための施策が必要となってきていました。
事業本部には、市民主体の子育て支援活動を推進し、地域で子育てしやすい環境をつくる等の目標をおいた3課が設定され、私はそのうちの子育ての支援を行う「地域子育て支援課」に配属されました。
業務内容は、親子が主役の居場所づくり等の子育て支援ということでしたが、この時はまだ配属されたばかりで、その内容について十分理解できる状況ではありませんでした。
何故ならこの時期には、浜田家の子育てはほぼ終了していたからです。

配属後、何を目指して何から始めていけばいいのかわからないなか、業務内容が周知され、最初に会った事業関係者は、横浜市の子育て環境についての提言を行った「よこはま一万人子育てフォーラム」のメンバーの方々でした。
事業本部への来訪があり、事業本部の長である本部長から「この団体と共に子育て支援を進めていく」と伝えられたときは、身が引きしまる思いでした。

主担当は、親と子のつどいの広場事業(以下、「広場事業」)になりました。事業本部設置の前年度である平成14年度(2002年)には、既に市内3か所の広場が事業採択されており、事業開始の年度である配属時、補助金交付が私にとっての最初の仕事でした。

つどいの広場ってどんなところだろう?
現地視察として、採択された広場のうちの一つ、菊名にある親子のひろばびーのびーのに初めて訪問する際だったでしょうか、広場に来る際はネクタイを外してきて欲しいと言われました。
ネクタイをしていくのが市の職員として普通であったのでどうしてなんだろうと思って訪ねてみましたら、そこはネクタイをしていく施設ではなかったですね。利用者にとって行政なんて関係ないですからね。かしこまっちゃいけないですね。
広場は狭い、でもスタッフはみんな笑顔たっぷりで、利用者に寄り添っている、ここがつどいの広場なんだと実感することができました。

平成16年(2004年)にびーのびーので開催された「こんにちは市長です」の様子

事業本部では、たびたび本部長自ら区役所等関係機関に子育て支援について説明に出向いたわけですが、どこに行っても当初はなかなか理解を得られなかったようです。
子育て支援の関係者と手作りで複数回開催した子育て支援のシンポジウムの際も、区役所関係者の参加者が少なかったことを覚えています。
それでも少しずつ前進していきました。
 
当初、担当としてやり切れない思いをしたのは、広場事業の補助金の額が少ないことでした。広場施設の家賃も補完できないような補助額でした。
各年度の予算要求時には、必ずといっていいほど広場の実態を説明し、補助額増額要求をしてきましたが、毎度叶わず、忸怩たる思いで広場事業を執行していました。
そんななか、平成17年度(2005年度)から開設された地域子育て支援拠点事業、同じ子育て支援事業でありながら、物件費、人件費が整った委託事業で、一方の広場は人件・物件費の区分もない補助事業で、差があきらかな状況となりました。このときに広場事業も予算の再考をしてもらえていたらよかったのですが、広場事業は受益者負担事業として、大きな変化もなく継続していきました。

現場で広場スタッフが利用者を迎えたり、寄り添うには、笑顔でなければいけないのではないかと日頃から思っていたのですが、市からの支援は乏しく、その面から笑顔をもたらすことは出来なかったと思っています。

広場事業者は、利用者のために様々に工夫して頑張って実施してくださっていました。今思えば、補助金は出ないけれど、子育て支援のためなら何でも取り組んで欲しいという思いを受け止めていただき、子育て家庭に寄り添う形で事業を進めていただいたような気がします。
このため、区役所とやり合うこともありました。広場からは様々な意見をいただきましたが、それでも真摯にこの事業に携わっていただいた全ての団体、スタッフの仲間の皆さんに感謝と敬意を表します。

平成18年度(2006年度)には、新局「こども青少年局」が誕生しました。担当業務は変わりませんでしたが、横浜市全体に広場事業は拡がり、各エリア単位で連絡会議等も開催されるようになりました。また、新設された広場に行くたびに、スタッフ関係者には優しく、そして温かく対応していただき、いいことばかりでした。
平成15年(2003年)から平成21年(2009年)までの都合6年間在籍しました。この間、やらなければいけないという使命感とやりきれない挫折感が入り交じる6年だったなあと今も思うのです。

こども青少年局から異動するときも、つどいの広場の状況が変わっていなかったことが残念でならなかったのですが、タイムリミットが来てしまいました。
子育て支援事業本部、こども青少年局在職期間は、私にとって最高の6年間でした。

事業本部解散式で配布された、事業本部での3年間を振り返るパンフレット

広場事業開始以来、びーのびーのとはいろいろやって来たと思います。びーのびーのに引っ張られたというのが正しいかもしれません。
広場事業が横浜市だけでなく全国でも順調に進むなか、広場の全国組織(子育て広場全国連絡協議会)の設立総会への参加、その後、各都市で行われた広場の全国大会にも何回か参加しました。
自分の居場所なのか、とかなり違和感はあったのですが、他都市の広場関係者の方との交流もできました。関係者の方々からは、行政から参加していることにかなり驚かれましたが、横浜市では当たり前のように出張させてもらっていました。

大会では、どの都市の子育て支援スタッフの皆さんも熱く熱く語り合っており、その光景が印象的であるとともに、この事業の課題の大きさを感じることができました。
また、つどいの広場を作り上げたびーのびーのから学ばせてもらい、すべてが貴重な経験でした。
 
子育ての支援の業務から離れて数年が経ち、びーのびーのから協力依頼の話をもらいました。役員就任の声をかけられるなんて考えもしなかったことで、何の組織も持たない自分に何ができるか戸惑うところも多々ありましたが、楽しかった広場事業に縁を感じて、協力できることを協力させてもらおうという思いで受けることにしました。

びーのびーのは当初より行政に頼るばかりでなく、いろいろな形で事業の実施を図ってきました。認可が下りなければ、まず自主的に進めていく、次に事業を認めてもらい、補助に結び付けるような感じでした。それは何よりも大変なことでリスペクトしているところです。
今もそのやり方は変わっていないと思います。

びーのびーのは、横浜市においても、さらに全国的にみても子育て支援事業をリードしてきており、びーのびーのが始めれば事業化してきている状況に期待することは大きいものがありますし、魅力的でもあります。
今実施しているすべての事業が順調に展開していくこと、これから進めようとする事業がうまくいくことを微力ながら協力していきたいと思っています。

何ができるかではなく、協力できるものは何でもしようという想いでやっています。現在、奥山・原両氏に続く次世代づくりが課題でしょうか。今後とも市役所時代と変わらずやっていけたらと思います。
すみません、思いばかりが先行するコメントとなってしまいました。

浜田 美徳

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