演出家から「処罰」の権限を奪うこと、あるいは「帰りの会」という実験
2023年03月12日のツイートより
さて。『天国への登り方』の本番が近づいてきた。ハラスメントについての議論を今回、座組でも劇団会議でもかなりの時間を割いて行った。いや、行い続けている、というべきか。僕が割りと既存のハラスメント防止のための議論を全肯定するのは危険だなあ、と思う性質なので、劇団としても時間をかけ、独自の取り組みをさせてもらっている。
最近、導入してこれは画期的だな、と思っているのは「帰りの会」制度。これは簡単に言えば稽古終わりの10分間ぐらいで、その一日にあったハラスメント的こと、危険な言動、疑問、違和感、などについて毎日全体で話合うことだ。司会は、演出家以外のメンバーがやる。時間は取られるけど成果は確実にあった。
その日一日で起きた出来事じゃなくても話題にしていいし、俳優相互の間に起きたことでもいい、というルール。戸惑いつつも、多くの参加者が慣れてくるにつれどんどん発言するようになっていった。問題が大きくなる前に潰す、という発想だ。
ハラスメントを「あってはならないこと」として捉えるのではなくて「日々、生み出されざるを得ないもの」として捉え、いわばゴミ捨てみたいな感覚でかなりの頻度でノイズを出す。問題を共有する。小さな違和感のうちに、つまり「断罪」という大袈裟な形になる前に、これでいいのかな? と言えるようにする試み。
主眼としたのは、いかに演出家が持ちすぎている巨大な権力を解体していくのか、ということ。それは責任を分担する、ということでもあるはずだ。演出家が持っている無駄な権力・責任として、たとえば「処罰」というタスクが挙げられる。そこで今回、僕は遅刻者に対してあらゆる叱責を行う権限を手放した。
単に寝坊で遅れた人間に対してでも、僕には叱責する権限はない。代わりに、それは俳優相互で管理するべく、注意する係を作った。この「処罰」という問題は根が深く、ハラメントの温床になっていると僕はニラんでいる。演出家に無駄な権力を行使させることになるので。しかし、このことに注意を払っている人、団体は現在のところ少ない。
僕も演出家をやっていて「処罰」する係をずっと「やらされてきた」という感覚がある。そういった演出家は少なくないはずだ。ものすごく具体的に言えば「あの人、○○だから広田さんから注意しておいてくださいよ」という要請を受けたことが僕は何度もある。もちろんそれはあんまり楽しい仕事でもなかったし、できるなら避けたい役割ではあったのだが、「ここで逃げるわけにもいかない」と思ってその役割を引き受けてきた。しかし、それは本当に「演出家の仕事」なのだろうか? ハラスメントの問題が複雑化しきている昨今、「では、ルールの逸脱があった時に、誰がどのように処罰するのか?」は無視されがちな問題だが、「演出家がちゃんと管理してくださいよ」「します」という関係性を温存したままでは良い結果を生まないように思う。それは、権力者にさらに権力を集中させる仕組みなのだから。
もちろん俳優相互で注意し合うのは簡単なことではない。というより、極めて困難なことといっていいだろう。注意を越えて「処罰」ともなればハードルはさらに高い。そもそも俳優間には「お互いの仕事には口を出さない」という文化がある、と、僕は感じているのだが、もしかすると、これが間違いのもとなのかもしれない。相互に注意しあう、警告し合うという文化が無いのなら、「上の誰かが処罰する」という結果にしかならない。
なので、今回こういうことをやれているのは客演さんやスタッフの方々を含めた座組の面々、とりわけ劇団員たちが「新たな責任」を引き受けてくれているからだ。本当にありがたい。「ハラスメントの無い現場を作る」という仕事/責任を、演出家/権力者にだけ任せるべきではない。
仮にかつての「演出家の言うことは絶対」という雰囲気の稽古場を王が統治する専制君主性に喩えるならば、それを脱するためには、王権を打倒する必要があるのではないだろうか。稽古場に民主政治が行われなければならないのだ。そこで求められるのは権力/責任の分担と相互監視であるはずだ、と僕は思う。もしも、「そんなことは下々のものにやらせないでほしい。優れた王様がものすごく出来た聖人君子になって完璧な統治を行い、しかも権力の濫用に走ることが決してない、という民が幸せな状態を作ってほしい」と願うなら、それは民主的な稽古場ではなく、極めて儒教的な概念に基づいた封建的な稽古場イメージだと言えるだろう。
もちろん、実際にやってみるとうまくいかないこともいっぱいあるが、「もっといい王様はいないのか!?」なんて議論を続けていたって民主政は作れない。にもかかわらず、多くのハランメント防止対策の議論がそのような価値観に基づいて行われているように僕には思えてならない。権力者から奪った権力を適切に運用するシステムを考えなければ、稽古場のハラスメント問題の根本は永遠に解決を見ないはずだ。
★★【後日追記】★★
「帰りの会」制度はうまく活用すればすごく有益な試みだろうと思う。ハラスメントに関して参加者全員が言葉を持てるようになり、責任を分担できるようになる、ということがその効用ではあるのだが、しかし、大きな弊害もあるのでそれについても書いておきたい。
簡単に言えば「帰りの会」で毎度毎度、ハラスメントについての議論をすることは、参加者全員に非常に大きなストレスが掛かるということ。それが相互の揚げ足取りや、責任転嫁、または過剰な他責志向へも向かいうる、ということには注意しておかなければならない。現代において「それってハラスメントじゃないですか?」という指摘は人を黙らせるだけの効力がある。最悪の場合、それを指摘された人間は業界全体を永久追放になってしまうのだから威嚇効果は十分だ。だが、何がハラスメントであって何がハラスメントではないのか、という線引は容易な場合ばかりではなく、極めて判断が難しい。したがってグレーゾーンの行動、言動が大量に存在するわけだ。そういった状況下で「ハラスメントを自覚してください!」「ハラスメントを反省しなさい!」という言葉ばかりが過激化していけば、それはかつての連合赤軍が山岳ベース事件で陥ったような「総括せよ!」という無限に遡行する反省のループを呼び寄せてしまうことだろう。
ハラスメントが十分に相互監視され、お互いに問題点をすぐに指摘し合える現場ができたら、それが理想的だと思えるのかもしれない。けれど、相互監視と他者への責任追及、反省を求める態度のエスカートは「総括せよ!」という極めて硬直した空気を作り上げることにも、私たちは十分配慮しなければならないはずだ。
ほな、どないせえゆうのか? と。結論としては「帰りの会」も、適度なところで空気を抜いて、時には意図的になあなあでやることも大切だろうということ。要するに「中庸」だ。所詮、人間のやることなんだからいつでも間違いは起こりうる。そういったある種の諦念を集団として持ち、相互監視が「許し合い」に着地できるように留意することが大切なのではないだろうか。そうなんよ。「許さん!」じゃなくて「許し合い」。ここが肝心。「あらゆるハラスメントを許さない」という態度は「総括せよ!」と紙一重だということを私たちは忘れるべきではない。そんな言葉が集団内で増殖していけば行き着くところは山岳ベースの殺し合いに他ならないわけで、その苦い歴史的な教訓を、私たちは軽く考えるべきではないだろう。どうも僕には昨今の演劇界のハラスメント防止のための運動が、この種の配慮を欠いているように思えてならない。冷静に状況を見つめてもらえれば、「許さない!」といって他者のハラスメントを激しく糾弾していた方々が、自身のハラスメントを指摘された際にいかに着地点を見失って否認に転じてしまうのか、既に明らかになってきつつあるのではないだろうか。