内面化された差別問題。
差別の問題を考える際によく、図らずも傷つけてしまった発言なのか、意図的な差別なのか、ということが問題にされているように感じます。言い換えれば「過失や失言としての差別」なのか「差別感情に基づくもの」なのか、という問題。当然、後者の方がより悪質性が高いものと判断されるわけです。
「内面化された差別意識と向き合う」というような表現に出くわすこともしばしばあります。勿論、大枠として自らの言動、行動を省みて、差別/加害を行わないよう注意を払うことは重要でしょう。それには僕も全面的に賛成です。ただ、この考え方にはどうも落とし穴があるようにも思うのです。というのも、この考えに僕は「内面化された差別と向き合い、それを克服していく」ということを感じてしまうのですが、さて、はたして人間は内面化された差別感情を克服することなどできるのだろうか、と考えるとかなり怪しいと思えるのです。
どうもこの考え方の背後には単純化された善悪二元論があるように感じます。要するに、世の中には「差別をする(悪い)人」と「差別をしない(善い)人」がいて、差別を内面化している「悪い」人はどこまでも叩いていい、と。このような考え方が差別者と認定されてしまった人に対する行き過ぎたバッシングの一因となるわけです。その一方、「本当は善良な人」が起こしてしまった「意図せぬ」差別は多めに見てあげよう、という考えも同じ場所から生じます。「善い人」が偶発的なミスとして起こしてしまった差別的発言/行為は、少なくとも「悪い人」の差別とは別の次元で考えよう、というような属人的な考えですね。これをもう一歩進めれば、「私の友達の○○さんはすごくいい人だ。だからこの人が差別する(悪い)人なハズがない!」という思考を生むのではないか。当然ながら、こういった考え方は公正でも公平でもありません。
差別感情を乗り越えようとする際に陥る最大の誤謬は、「いつか差別感情を完全に克服できる」と、考えてしまうことではないでしょうか。つまり、十分に学びを深めて、他者に対して誠実であり続ければ、いつか完全に差別を「卒業」した人間になれるのではないか、という誤解。端的にいってこれは間違いです。
差別感情、認知バイアス、進化心理学
残念ながら我々人間という存在は「差別感情」を完全に乗り越えることはできません。あらゆる差別、偏見、つまり認知バイアスから、完全に自由になって思考することも判断することもできはしません。そのことは近年の様々な臨床心理学の知見から明らかにされていることであり、道徳心理学者のジョナサン・ハイトなどは常々その点を強調しています。
人間が生存していくためには直感的に/予断を持って、つまり偏見で判断することが「合理的」な場面もあるわけです。真っ赤なキノコを見つけた時に「ありゃ毒キノコだ。色がヤバイ」と判断する。これは偏見です。毒の無い真っ赤なキノコだってあるのに! でも、それを避けることが生存を助けることもある。
要するに認知バイアスは時には私たちの役に立つし、人間の判断能力というものはすべての偏見を無くしてしまったら正常には機能しません。その意味で「内面化された差別感情」を完全に乗り越えることは不可能です。ならば、問題とされるべきは、内面化された差別ではなくて、徹頭徹尾、差別の表面、表現なのではないか。
ほとんどの人が死ぬまで「偏見」とか「差別感情」を認知バイアスとして持ち続ける。あらゆる偏見から人間が自由になる時が来るとしたら、それはあらゆる判断が不可能になった場合でしょう。だから、誰もが差別しうる、加害しうる、という前提のもとでこそ反差別について考えたい。とかね、思うんですよ。