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アダムとイヴの嘘

子供の頃、日曜学校に通っていた、というか通わされていた。親がクリスチャンだったからだ。私は日曜日は近所の空手道場に通いたかったのだが、それを言わせない独特な雰囲気が家庭や教会に存在した。

「武道の道場で神前に礼ってやるでしょ?あれはいけないことなのよ」
亡き母はよくこれを言っていた。読者に一発で意味が伝わらないだろうから説明を加えると、「唯一神以外の神をうやまうことになるからダメ」という大変厳しいもので、兄弟3人とも「初詣禁止」だった。

それほど熱心なクリスチャンではなかった亡き父は、母と結婚する時に何らかの条件を言われたのかもしれないが、今となってはよく分からない。

日曜学校は教会での礼拝が終わった後に子供達だけが別棟に集まるというものだったが、富士五湖の湖畔でキャンプをしたとかその程度の記憶しかない。ただ、教会の図書室に行くと「キリシタン大名は勇敢で戦術で長けていたので多数の敵(当然だが日本人)を殲滅出来たのだ」と書かれた本があって、「キリスト教は反戦非暴力の宗教です、などと大人は言ってるけど矛盾してるな」と疑問に感じた。

キリスト教に対する疑問は中学生になると更に膨らんだ。その一つに下記の絵がある。見ての通りアダムとイブの絵画だ。

この絵の出典は下記サイトから
https://stephentravels.com/top5/depictions-of-adam-and-eve/

アダムとイブは2人とも白人に見えるので「これが最初の人類です」と言われても「じゃあどこかで日本人と血が繋がってるのか」とも思えなかったし、アダムはともかくその肋骨から作られたはずのイブにへそがある。

これは科学の子として気になった。カエルにへそが無いのは卵生だからで、人間にへそがあるのは胎生だから。イブの母親が誰なのか謎、とまでは当時思い至らなかったが、牧師さんに訊いてみた。

「イブにはなんでへそがあるんですか?」
牧師さんが返事をする前に母親に肩を引っ張られ、後ろに追いやられた。別に叱られもしなかったが、現在に至るまで「何故イブにへそがあるのか」という疑問にちゃんと回答したクリスチャンは居ない。

神の似姿のアダムにもへそがあるので「さては神にも母と呼べる人がいたのか」とも今更思いつくのだが、とにかく中世ヨーロッパは識字率が同時代の日本に比べても低く、宗教画を用いた布教が普通だったと聞いて、「先進国欧米が日本に劣っていたとは」と驚いた記憶がある。

都合の良いもので、その後「識字率は人種や民族の優劣を左右しない、人間は平等だ」と唱えられるようになった。ネットの無い時代は欧米=先進国程度の認識で、「IQよりEQが大事」という説が流行った時、最初のうちは「そうなのかな」程度には気にしたがしばらくして「東アジアにIQで負けたから欧米も新しいゴールポストを持ってきたんだろう」と思い至った。

多少話が前後するが、某中高私立一貫校に入学すると、広島に原爆が投下された8月6日と終戦記念日の8月15日には朝礼で1分間黙祷をするという慣例があった。当然だが、戦没者を悼む為の黙祷だ。

小学校では教師が赤化していたからかやらなかった。そして教会でも戦没者追悼礼拝に類するものは全く行われなかった。戦前にも日本にクリスチャンはいたが、戦後GHQが真っ先に取り入ったのが日本人クリスチャングループで、ある牧師さんの話によれば「進駐軍に貰ったバターを食べたら鳥目が治った」とのことだった。戦時中の食糧不足でビタミンAが不足していたのだ。

今でも米英は東南アジアの山岳民族などにキリスト教を布教している。親西側勢力を確保するためだが、キリスト教布教は第二次世界大戦が終わってからも常に軍事作戦の一部だった。

日本人は他宗教に寛容というか無関心で、「キリスト教でもイスラム教でも人に迷惑かけなければいいんじゃないの?」程度の感覚。だがクリスチャンやムスリムにとっては大問題で、欧米のイスラムフォビアと日本のそれは次元も方向性も全く違う。

ともかく第二次大戦後、特に米英は日本軍のゲリラ化を警戒し、報復を非常に恐れていた。テロで殺される訳にはいかないが、原爆をまた投下したら国際社会に言い訳が立たない。戦争は外交の失敗と言われるが、2度の原爆投下は外交的に大失敗だった。

日本は敵を作らないことを優先するが、米英は味方を増やすことを優先する。第二次大戦後、GHQは日本のクリスチャン勢力を重んじ、「あなたがたは優秀な人達だ」と持ち上げて、宣撫工作(私達は友人ですよとアピールして敵意を削ぐ作戦)を行った。

すると日本人牧師達もバターの他にコンビーフなどを貰ったからかもしれないが、第二次大戦の日本人戦没者を追悼すると不可避的に米軍から受けた被害も語ることになるのでその類の行事が出来なくなった。ルーテル教会ではドイツ系だから追悼行事があると聞いたことがあるが、前述のイブにへそがある時点でキリスト教に嫌悪感を感じ、興味を失くしていた。

15歳の頃、両親に「僕は仏教徒になる」と告げたら父親に「そんなこと言って、お前お経は読めないだろう」と言われたので覚えたての般若心経を唱えたら我ながら下手で笑われたが、日曜日に両親と教会に行くことはそれ以来無くなった。

仏教徒になると言ったものの、中沢新一の「虹の階梯」というチベット仏教の本を読んだりしたが、後にこの本がオウム真理教で重んじられていると聞いて読むのを止め、カルロス・カスタネダの夢見の技法やクンダリーニヨガを試したりしたが、「どれもアメリカ人が評価しているから日本人も評価しているんだよな」と気付き、パンクスになり、B5判の宝島を熟読するようになった。

ここはnoteなので意識高い系なことを書いて締めの一節としたいが、長崎原爆の日に長崎市はイスラエルを招聘せず、米英及びEU等の大使は参加を見合わせるとのこと。これまで歴代長崎市長は2名暗殺されている。どちらも右翼とヤクザの犯行だが、「右」がイスラエル外しを強要するはずもなく、親ハマス勢力からの圧力があったと想像される。

そんな余計なことをしている暇があったら「アダムとイブに何故へそがあるのか」ちょっと教えて欲しい。Xはダメだけどnoteのレス欄になら長文書いていいですよ。

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ビリー高橋
記事作成の為、資料収集や取材を行っています。ご理解頂けると幸いです。