アムステルダムの一夜 1989年11月(その1)
1989年11月2日。正午前。
その時僕は、アムステルダム駅の前で小さなカメラを抱えて歩いていた。
前の晩、ロンドンからの夜行バスで初めてヨーロッパ大陸に足を踏み入れた僕は、もうすぐ22歳になろうとしていた。
まだ猿岩石もいない時代だ。
深夜特急も読んだことはなかった。
だがバックパッカーという言葉は存在していたと思う。
大学を1年間休学し、その年僕はある国で半年働き、お金をため、残り半年をバックパッカーとして放浪することに決めていた。
その出発の地がアムステルダムだったのだ。
想像以上に寒かったが、天気はよく、駅前は多くの人で賑わっていた。
青空の下、鳩が飛び交い、自転車、トラム、杖をついて歩く初老の男性、全てが「ヨーロッパ」だった。
「いよいよここから旅の日々が始まるのか」
まだ汚れを知らないジーンズと白いシャツ、そしてニューヨークで買った厚手のジャケットを着た僕は、ただただ気分を高揚させ、目の前に広がる旅路に思いを馳せていた。
それから約5ヶ月続いた旅が、どれほど過酷で強烈なものになるのか、その時の僕はまだ知らない。
ともかくそれは、アムステルダムで始まったのだ。
歴史を感じさせる駅舎をバックに写真でも撮るかと、うろうろしていた僕に、一人の男性が英語で話しかけてきた。
「写真撮ってやろうか」
50歳くらいの、きちんとした身なりをしたまともそうな男性だった。
「あっ、お願いできますか」
21歳にもなりながら、満面の笑みと相変わらずのVサインで写真に収まった僕は、彼に礼を言った。
「ありがとうございます」
「君は日本人だろう」
「あっ、そうですよ」
「旅行で来たのかい?」
「一人旅です。ここからヨーロッパを回ってエジプトやモロッコにいこうと思ってるんですよ」
「へえ、それはすごいね」
話を聞くと、彼はどうやら教師をやっているらしい。人の良さそうな人だったので、僕はついこんなことを聞いた。
「アムステルダムでビールを飲むとしたらどこがいいですか」
「ビール?」
「ええ。僕、ビールが好きなんです」
彼は笑みを浮かべて僕をしばらく見つめた後、こんなことを言った。
「ビールなら、店なんか行かずに、どうだい、家に来ないかい」
「えっ、おじさんの家に?」
白髪が目立つ頭髪を撫でながら、彼はメガネの奥から優しい視線で僕を見た。
「家ならいくらでもビールくらい飲ませてあげるよ。僕の家は運河沿いにあってね。なかなか風情があっていい雰囲気なんだ」
「いいんですか?」
旅の初日でもあり、僕は全くのウブだった。
ビールを飲ませてくれる、アムステルダムに住む人の家に行ける、そして運河沿い。様々な要素が、僕を完全に支配した。
「実は女房、子供がちょうど旅行中でね。今は僕しかいないんだよ。よかったら今夜是非おいでよ」
「行きます、行きます!」
僕は、彼から住所をもらい、地球の歩き方に載っているいい加減な地図で大体の場所を確認した。
「じゃあ7時頃においでよ。ビールを冷やして待っているから」
そして、僕は彼と別れた。
「いやあこれは幸先いいじゃないか。ついてるなあ、全く」
僕は笑みを隠すことができず、ニコニコしながらアムステルダムの市街に歩いて行った。
その夜、彼の家で一体何が僕を待っていたのか。
あれから30年以上経っても、鮮明に覚えているほどの「事件」がそこで待っているとは、その時の僕には、まだ知る由もなかった。