アムステルダムの一夜 1989年11月(その2)
彼の自宅はすぐに見つけることができなかった。
午後7時を過ぎ、日が少しずつ西の空に沈みかけている。
アムステルダムの運河も、観光客に見せていた華やかな雰囲気は脱ぎ去り、普段着の姿に戻ろうとしているようだ。
その運河沿いの細い道を行ったりきたりしながら、僕は彼の家を探した。
「多分この辺りなんだけど」
地球の歩き方の地図だけでは流石に心細く、僕は昼間、街のツーリストインフォメーションで別の地図を手に入れていた。
彼が教えてくれた通りの名前、そして番地。
僕は勝手に彼の家を、チューリップに囲まれた素敵な一軒家だろう、と想像していた。
しかし僕の目の前には、運河に沿って長く連なるアパートのような建物しかなかった。
道路に面して入り口らしきドアがいくつも並び、そこから上に向かって階段を昇っていくような造りになっているらしい。
3階建てか4階建ての歴史を感じさせる建物だ。
これはこれで、一軒家とは違う別の魅力を漂わせていた。
「やっぱこれがヨーロッパだよな」
よくわからない感想を抱いてしまうのも、やはりバックパッカーとしての長い生活が今日始まるからだろう。
僕は、あるドアに近づき、部屋番号らしい数字が書いてあるかどうか、確かめた。
よく観察すると、ドアの前にある柱に、数字やアルファベットらしき文字が印字されている。
やがて僕は、その番号が左から右に連番になっていることに気づいた。
「えっと、この番号だから・・・・」
随分と長い距離を歩き、次第に空は暗さを増していく。
早くビールが飲みたいものだ。
僕は高揚した気分を抑えきれない自分を感じながら、少しずつ目的地に近づいていることを確信した。
そして、ついに僕は一つのドアの前にたどり着いた。
「ここかもしれない」
そこには、彼に教えてもらった自宅の番号と同じ数字が、しっかりと掲げられていた。
だが、どう呼び出せばいいだろう。
ドア周辺をよく観察すると、インターフォンかベルのような、来訪者を教えるためのボタンがあるようだ。
少しためらった後、僕は思い切ってそれを押してみた。
ゴーーーーーーーン・・・・・・
それは、全く予想外の、まるでジョンレノンの名曲「マザー」冒頭の鐘の音のような、低く、やや陰気な音が、大きく響いた。
嫌な予感がするな・・・・
いつの間にか、僕の胸はドキドキと鼓動を高鳴らせていた。
しばらくの後、ドアの向こう側にある階段の上の方から、男の声がした。
「ちょっと待って。今すぐ行くから」
それは、昼間アムステルダム総合駅前で出会った、あの男性の声に間違いなかった。
よかった。何とか彼の自宅にたどり着くことができたのだ。
嫌な予感が、僕の胸の中から瞬時に霧消した。
やがて、階段を降りてくる音がし、ドアが開いた。
いつしか、もう外はすっかり日が沈み、暗い空間になっている。
「よく来たね。待っていたんだよ」
そう言うか言わないかのうちに、彼は、突然僕を抱きしめた。
そして、僕の左右の頬に、交互にキスをした。
えっ?
そんな風に、男性からキスをされた経験など、僕には全くなかった。
まあ、これもヨーロッパ流なんだろうな。
濡れた頬を拭いながら、その時の僕はそう思い込もうとした。
「さあおいで」
気のせいか、彼の表情は、昼間とは異なり、妙に輝いているように見える。
彼に誘われた僕は、階段を昇って行った。
その先にどんな世界が待っているのか、何も知らないまま。