”文化”のせいにしない~共創の異文化コミュニケーション
※2020年8月27日の記事を誤って削除したため、再掲します。
文化の異なる人と働くのは難しい。
利害関係のない友人関係でさえ、異文化コミュニケーションは難しいものだが、仕事となると、そのハードルはぐっとあがる。
それまで仲が良かった友人とも、利害関係が発生すると突然ぎくしゃくする事もある。
これまで短期出張含めて30か国以上で仕事をしてきたが、様々な文化的背景の異なる人と働いてきた。
7年前ウガンダで起業してからも、ウガンダ人はもちろん、様々な人種の方と仕事を共にしてきた。
僕は異文化コミュニケーションが得意ではない。
僕を直接知る人ならば分かるが多くの失敗をやらかしている。
そんな失敗から得た異文化理解に対する教訓がある。
※ちなみに、タイトルに”共創”と入れたのは意図がある。
外国人とうまく喋りしたい雑談したい。異文化コミュニケーションではなく、仕事やプロジェクトなど、文化的背景の異なる人と、共通の目標に向かって、お互いの価値観をぶつけ合いながら共働で創り上げていくような環境を状況における、異文化理解という意図である。
1.理解できない行動
異なる文化に接すると、自分では取らない行動、自分の価値観では理解しがたい行動を目にする事がある。
・時間にルーズ。待ち合わせに何時間も遅れてきて謝らない。
・約束した事を守らない。
・床にごみを捨てる。汚い。トイレが汚い・・・
・列に並ばない。順番を待たない。
・自分を主張して周りを鑑みない。(自我を押し通す)
などは、日本人が外国人と接した際の典型的なカルチャーギャップのようだ。
つい数日前、こんなことがあった。
3年程前に、うちの会社をバックレて会社に来なくなったスタッフからLinked Inでの友人申請がきていた。
社内で横領した事で警察沙汰になり解雇したスタッフから、1年後に再度雇ってほしいと言われることもある。(当然、雇わない。)
アフリカで仕事した経験の友人からは『あるあるだよね~』という反応が多かった。
アフリカ大陸も50か国以上の国があり、文化も様々だが、国は違えど、日本人にとって理解できない行動の一つのようだ。
(ちなみに、私にとっても理解しがたい行動だ。)
このような理解できない行動に直面した時に、よく『文化の違いだから仕方ないね』と割り切ってしまう事がある。
割り切ってしまった方がストレスにならず、上手くいく。
相手と自分は違うのだから、イチイチ悩んでも仕方ない。許容した方がいい!
これは一理ある。
平田オリザさんのコミュニケーションの名著:『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か?』でも、
これには100%賛成である。分かり合えると思うから相手に期待する。
自分の意図に沿うように相手が行動してくれる”はずだ”と期待するから、相手に求める。
分かり合えると思わない事は大事だ。
しかし、”分かりあえない”と思う事と、”分かり合おうとしない”は違う。
最終的には、分かりあえない事もあるが、分かりあおうと努力を続ける事でコミュニケーションが生まれる。理解が進む。
理解不能な行動に直面すると、『文化の違いだから仕方ないよね』と、それ以上相手を理解する努力から逃げたくなる。
文化の違いに理由を求めるのはとても楽だ。
説明できないものは何でもかんでも”あなたとは文化が違うから”と片付けてしまえばいい。
利害関係のない友人関係ならばそれで良いかもしれない。
しかし、同じチームや組織で協働する場合、それは根本的な解決の助けにならない。
2.”文化”のせいにしない
以前は、日々直面する価値観の違い、理解不能な行動の数々に、『文化違うから仕方ないか』と割り切ってきた。
その場は良い。諦めもつくので、口論にならない。
しかし、長く一緒に働いていれば、似たような場面に何度も遭遇する。
毎度、文化の違いを理由にしていても、根本の問題の解決に至らない。
文化のせいにする事は、目の前の問題を撤去せずに、土を被せて地面の中に埋める地雷と同じだ。
どうせ”分かり合えない”のだから”分かり合おうとしなくていい”ではない。。
上記の平田オリザ氏の著書の中でも、
と述べている。
文化のせいにして片付ける事は、分かり合う努力を放棄しているのでは?
そう思うようになってから、理解不能な行動、自分の価値観では合理的ではない行動を目にしたら、ふと立ち止まるようになった。メモに残すようになった。
もちろん『文化が違うからね』と吐き捨ててしまう事もある。
『だから、xx人は・・』『あいつらとは育った文化が違うから・・』と他人に愚痴ってしまう事もある。
が、自分が”文化のせい”と口走ったら、ハッとするようになった。
冷静になった時に、”文化”という理由で思考停止せずに、その奥にある背景を探るようになった。
3.背景にある合理性を探す
文化への責任転嫁を止めると、より深く相手の行動の背景を知りたくなる。
一つ例を挙げたい。
ウガンダで事業を始めた当初、従業員から給与の前借り要請が多くて嫌気がさしていた。
数か月の一度程度であれば良いが、月に数回申請してくるスタッフもいる。
他に対応を任せられるスタッフもおらず、全て自分で対応していた。
繁忙期やトラブル対応の中での申請は、特にストレスになっていた。
『月末に入ってくるお金が分かっているんだから、ちゃんと計画してくれよ』
『月に何度も起こるならば、イレギュラーではないのだから、ちゃんと余剰を残しておけよ』
とイライラが募る事もあった。
なぜ、こんなに前借りが多いのか。。
『貯蓄の習慣がないからだ』『お金の計画性がもてないからだ』と言われることが多い。
インテリ層のウガンダ人の友人に聞いても、『ウガンダ人はSaving(貯蓄)の習慣がないから、いつまでも発展しないんだ』などと自虐的に言う人も多い。
『貯蓄の習慣を広げよう!』的なキャンペーンをしている団体も多い。
ウガンダのRotary Clubでも『若者に貯蓄習慣をつけよう!』と啓蒙するプロジェクトがあり、自分も手伝った事もある。
なぜ、貯蓄しないのか?
『先進国(日本)と違い、貯蓄の文化がないからね。』と切り捨てられる事も多い。
(※日本の貯蓄率は世界的にも高いので、日本が引き合いに出るケースも多い)
本当だろうか?
文化の違いからなのか?
本当に貯蓄習慣や計画性の欠如から、給与の前借りをしているのか?
一旦”文化のせい”にせずに、相手の生活や状況を観察すると、違う背景が見えてくる。
注意深くスタッフを見ていると、違う一面が見えてきた。
ウガンダは、家族間の繋がりが強く、失業率も高い。
養育費、医療費、冠婚葬祭の費用など、急な出費があると、家族の中でお金を持っている人にお金を借りようとする傾向がある。
お金を持っている人とは、会社(組織)で働き安定した給与所得のある人だ。
現代の日本社会とは異なり、家族の血の繋がりは非常に強く、彼らの価値観ではそれを断わるという選択肢はない。
いまだに出生率が5を超えるウガンダでは、平均5-6人の兄弟がいる。
自分の近しい親戚だけで30-50名になる事も珍しくない。
配偶者の親族と合わせれば100名を超える。
このうち、正規雇用で安定した収入を得られている割合は少ない。
都市ではない郊外・田舎に住む庶民の生活は、自給自足をベースにしているが多い。
しかし、養育費、医療費、冠婚葬祭などは、どんなに自給自足の生活をしていてもお金が発生する。
急な入用があると、親戚にカンパを求める。
うちで働く正規雇用のスタッフは安定した収入があるので、親族から頼られることも多い。
せっかく貯めても、親族からカンパがあれば、それに応じなくてはならない。
せっかく自分の将来のために貯蓄をしても、事あるごとに親族からのお金の要求がある。
毎月の給与から一定額を残すように切り詰めても、自分の為に使えない。
さて、あなたならば、この状況で生活を切り詰めて、毎月少しずつお金を貯めたいと思うだろうか?
僕ならばしたくない。切り詰めてまでお金を貯めたいとは思わない。
この状況下では、貯蓄は合理的な選択肢にならない。
手元に現金を残すから使われてしまう。
でも、自分や家族の未来に投資したい。
貯蓄はせずに、前借りした方が合理的ではないか?
手元に残さなければ親族からカンパがあっても断りやすい。
(※毎回断れるわけではない。)
会社に勤め続けている限りは毎月一定のお金が入ってくる。
スクールフィーなど、纏まって支払う時は会社から毎月入ってくる給与を前借りした方が合理的だ。
事前に貯めておいても使われてしまうならば、将来からの前借りとして払い、その分を翌月から差し引いた方が、自分や子供の為に使える。
仮に、家を建てるなど長期の貯蓄が必要な投資においても、
土台、柱、屋根、内装など複数回にわけて、その都度前借りして纏まったお金を得れば、ある程度”計画的に”建てる事ができる。
実際に、このように”計画的に”前借りを活用して、家を建てたスタッフもいれば、副業(養豚や養鶏)を始めたスタッフもいる。
中には、手元に現金がなくても、親族からの要請で前借りしてカンパするケースもある。が、手元に貯金があるよりはマシなのだろう。
この事に気づいてから、給与の前借りを渋る事はなくなった。
前借りの理由を積極的に聞くようになった。
投資に使いたい!というスタッフには、投資プランを出してもらい、多めに前借りする事も許容してきた。
文化のせいと切り捨てない事で、裏にある生活や背景を理解する事が出来た事例だ。
もちろん、理解できない行動の背景に、必ず合理的な答えが存在するとは限らない。
それでも、異文化に接するスタンスとして、『文化のせいと切り捨てる前に、できるだけ背景を探ろう』とした方が良い結果に繋がる。
4.”啓蒙活動”の落とし穴
”文化のせい”という思考停止は、途上国の現場に意外なほど多い。
開発援助の現場でも、
■ 不衛生な水を飲み続けるのは、不衛生な水が及ぼす健康被害について知識がないからだ。
■ 子供に教育を受けさせないのは、教育の重要性が理解できていないからだ。
■ 化学肥料を使わないのは、肥料の利点、使い方を知らないからだ。
などなど、相手に知識がない。相手が無知である事を根本原因と捉えている例は多い。
その結果、『トレーニングをしよう!』『ワークショップをして、その大切さを知ってもらおう!』という”啓蒙活動”が生まれる。
課題の原因を”無知”と決めつける事で、”啓蒙活動”という解決策が生まれる。
本当の原因は無知?
上記の前借りの例で言えば、『貯蓄の習慣がない』『計画的にお金を使う事を知らない』のだから、Family Planningのワークショップを開催しよう。貯蓄の重要性についてトレーニングしよう。となる。
しかし、前借りの例で、僕の認識が正しければ、いくら啓蒙活動しても、行動変容には繋がらない。課題は解決されない。
なぜなら、受講者は『そんな事は最初からわかっている。しかし、この状況で貯蓄をして何の意味があるのか?』と思っている。
こういう啓蒙活動に効果があるか判断する上で難しいのは、多くの場合、トレーニングへの参加は無料な事だ。ランチや交通費が提供されることも多い。
タダで参加して多めの交通費・ランチも提供してもらえる状況で、『このトレーニングは役に立たないと思います。』とアンケートに正直に答えてくれる受講生はいない。
啓蒙活動自体がダメと言いたいのではない。
啓蒙活動の前に、相手の課題の背景にじっくり向き合う必要がある。と思う。
以前に、ウガンダの田舎の村に、井戸管理システムを導入するプロジェクトの起ち上げに関わっていた。
『なぜ、井戸を作っても、不衛生な泥水を使うのか?』
その答えは、彼らの生活に寄り添えば見えてくる。
井戸までの距離が長かったり、乾季には使えなかったり、メンテナンスで他住人とのトラブルがあったり、見えない水利権が発生していたり・・など様々だ。
このプロジェクトでは、『なぜ、井戸を使う事に抵抗があるのか?』を徹底して観察し、洗い出し、その不便や不具合を取り除く事に注力した。
ビジネスもおんなじ
イメージしやすいので先に開発援助の例を挙げたが、ビジネスの世界でも同じだ。
■ なぜ、この商品が売れないのか?
■ なぜ、このサービスが受け入れられないのか?
⇒
『消費者が製品・サービス自体の存在を知らないから』
『ユーザーが製品・サービスのメリットを理解していないから』
⇒では、製品とサービスをよく知ってもらうために、広告宣伝のキャンペーンを打とう!
ちょっと待て。
その前に、ユーザーの生活スタイル、慣習、判断基準などは理解できているのだろうか?
啓蒙活動とは相手を変えようとする事である。
相手の行動を変えようとする前に、自分自身の認識に疑いを持つ事の方がずっと大事だ。
もっと深くにある生活習慣、慣習、行動の背景、社会的な制約など、その製品やサービスが成立しない根本理由を探る必要がある。
特に、外国など自分自身がユーザー層にならない場合には、注意が必要だ。
5.無知ではない
短絡的に啓蒙活動と結びつけてしまう背景には、『知らないんだから、教えてあげなくちゃ』と相手は無知だろう。という前提がある。
”文化のせい”にする事もこれと近い。
一見、不合理な行動をしていた場合に、『文化の違いだね』『知らないんだね』と決めつけないで立ち止まる必要がある。
大抵の場合は、無知なのは自分の方だと気づかされる。
井戸の例でいえば、自分はその環境で生活しろ!と言われたら、近場の汚い水を選ぶだろう。
分かりやすく日本の生活に置き換えた例で考えてみたい。
と、逆の立場で考えれば、理不尽極まりないだろう。。
この場合、無知なのは、庶民のアパート暮らしの実態を知らない、スーパー金持ちの外国人だ。
そのスーパー金持ちが、庶民の生活を向上させたい??
マリーアントワネットの名言『パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない』である。
世間知らずもいいところである。。
先進国から来てキレイな水道水やペットボトルの水しか飲んでいない我々先進国の人にとっては、池の泥水は汚くて不衛生で飲めない水かもしれない。
しかし、その村で生まれ育った彼らにとっては。生まれた時からずっと飲んでいて、特に問題はない。お腹が痛くなる事もない。
仮に、その水が乳幼児の下痢の原因になっていたとしても、下痢の因果関係を直接紐づける事は難しい。
大半の村人は、その水に適応できているし、その水で生きられない身体の弱い子供は既に亡くなっている可能性もある。
(※5歳未満の死亡率が高い原因の一つ)
6.「文化への先入観を持たないこと」
先入観を捨てて接するのは難しい。
見返せば、僕も先入観だらけだ。ステレオタイプで決めつけてしまい後悔する事の連続だ。
それでも、「文化への先入観を持たない」よう努力を続けたい。
日本人だからこう、ウガンダ人だからこう、という決めつけず、個々人と向き合うようにしたい。
文化のせいにするのは簡単だ。しかし、その先には何も生まれてこず、根本的な問題の解決にはならない。
文化への先入観でその人をわかった気になるのではなく、その人の生きてきた価値観、暮らしている環境の価値観、現在の生活実態などから、その人がどう考え、なぜその行動をとったのか、深く考えるようにする事で、暗黙知であるバックグラウンドの違いに目を向け続けていきたい。
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