![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/100559891/rectangle_large_type_2_b867fb80e19b1feff331b7c1b2449029.jpeg?width=1200)
社会課題解決のストーリーテリング~スリランカで世界最高品質の紅茶を作るAmba Estateの物語①ー歴史編
今年の年始、スリランカでオーガニック、手作りの紅茶で世界最優秀賞を取っているAmba Estateという茶農園&茶工場を見学してきた。
社会的企業のベストプラクティスとしても非常に興味深い。こんな起業の仕方があるのか!と大変感銘を受けた。
2006年に150年の歴史を誇る小さな農園を引き継いで、現経営陣達が立ち上げたのがAmba Estate。
「スリランカから持続可能性のあるビジネスモデルで、世界最高品質のお茶を届ける!」と決意しスタートした。
現在はGolden Leaf Awardなど世界の名だたる賞を受賞するまでになり、また従業員や農家さんの地位・名誉向上に多大な貢献をしている。
Amba Estateの概要は以下のスパイスアップ スリランカのページにも詳しい。
年間7000人が訪れる茶園
コロンボからは高速道路を利用しても、5時間以上とアクセスの悪い場所に年間約7,000人(2019年3月時点)の観光客が訪れているそうです。
2017年3月の取材当時は年間約2,000人と聞いていたので、2年で3.5倍に訪問者が増えているというのは驚異的です。
観光ツアーに参加
きっかけは、上記のスパイスアップスリランカ代表の神谷氏の紹介だ。
神谷氏は学生時代からの20年来の友人で、スリランカの情報発信サイト、企業向けのツアー、日本語のフリーペーパーの事業を行う。
スリランカは2度目の渡航。前回の2018年も彼に会う目的で訪れた。
Amba Estateは、スリランカの内陸ウバ州、Ella(エッラ)という紅茶の名産地にある。Ellaの街からは車で40分くらい進んだ山の中にある。
Amba Estateはラグジュアリーなファームステイロッジも併設しており、観光客が宿泊することもできる。(参照「ラグジュアリーなファームステイ「アンバ農園(AMBA Estate)」」)
僕はEllaの街に宿を取っていたので、今回は一日だけ訪れ、毎日11時から行われている農園ツアーに参加した。
通常、20-30人が参加するというツアー。
しかし、訪問日は1月2日。
年始ということもあり、参加者は私一人!!!(とAmbaで今日から1年のインターンを始めるスリランカ人の女性のみ)
実質は一人のプライベートツアーとなった。
さて、Ambaについて語ると、かなりなボリュームとなることから、数回にわけて紹介したい。
一回目の本日は、紅茶の歴史と、スリランカの紅茶産業の課題について。
スリランカの紅茶産業の課題が分かると、Amba Estateの取り組みの理解度が高まるため、まずは紅茶の歴史を堪能しよう!
![](https://assets.st-note.com/img/1679118071122-1wVuH5ZNoU.jpg?width=1200)
1000年の間、西欧に伝わらなかったお茶
お茶の発祥は中国と言われている。
歴史上、最初にお茶が登場するのは、今から4700年前、紀元前2700年ごろ、神農時代と考えられている。「神農(しんのう、農業・漢方の祖)」の逸話で、食べられていたそうだ。
漢の時代(紀元前1世紀)頃には、お茶は薬として使われ、この頃から既に上流階級の嗜好品として愛用されていた。
そして、唐の時代(618~907年)になると、お茶を飲む習慣は中国全土に広がった。
※「お茶百科」お茶の発祥より
西洋にお茶が伝わるのは16世紀に入ってから。
この間1000年のあいだ、お茶の存在は西方には伝わらなかった。
ちなみに、隣国日本には早くから伝わっていて、日本にお茶を伝達したのは、平安時代の最澄(767年ー822年)。遣唐使として渡った中国から茶の種を持ち帰り、当地比叡山麓の坂本に植えたのが始まりと言われている。
16世紀に入り、当時、ポルトガル商人が中国でお茶を発見。
大航海時代を迎えたヨーロッパは、アジアへの貿易を拡大していく。
ポルトガルは1516年に中国に来ており、1557年にはマカオに居住を許可されるなど、ヨーロッパの国でいちばん早く中国と接触し、1543年には日本の種子島に漂着して鉄砲をつたえるなど、東アジアで活発に活動していましたから東アジアの代表的な飲み物、お茶に接触し、紹介しても不思議ではありません。
そして、実際にヨーロッパにお茶が伝来したのは17世紀、1610年にオランダの東インド会社によって紹介された。
初期はオランダの船で運ばれ、アムステルダムの街からヨーロッパ各国に伝わっていった。イギリスには1650年頃伝わったとされる。
当時、コーヒー中心の文化だったヨーロッパ諸国。
フランスやドイツは、コーヒー以外にもワイン、ビールが一般的で、お茶が大流行することはなかった。
しかし、イギリスだけは上流階級にお茶が定着した。
当時、ロンドンにあったコーヒースタンドは、短期間でティースタンドに代わっていったほどの人気だったという。
お茶の独占を巡る戦い
王侯・貴族がお茶に砂糖を入れて飲むことで流行したイギリス。
最初の頃は、オランダ経由で輸入していた。
しかし、圧倒的な需要が高まるなかで、オランダが間に入って、利ザヤを払うよりも、自分たちで直接貿易した方が有利と判断。
1669年、イギリスはオランダからのお茶の輸入を禁止する法律を制定し、宣戦布告を仕掛ける。
英蘭戦争(1672~1674年)に勝利を収めたイギリスは中国貿易で優位に立つ。そこから、実際に中国のお茶がイギリスで流通したのは15年後の1689年。
その後、1720年にイギリスは念願の輸入独占権を得る!
当時の国際貿易の通貨は銀。中国とも銀を介してお茶を購入していた。
イギリスは、アメリカ独立戦争(1775-1783年)の影響で植民地からの銀の供給が困難になったことに加え、産業革命の振興で銀の需要が高まっていた。
そこに、中国からのお茶の輸入量が増えたため銀が不足していった。
一方の中国側もイギリスに独占権を取られないよう模索を進める。
中国はイギリスを経由せずにヨーロッパへの輸出のルートを開拓する。北のロシア経由、ドイツを通じたルートを開拓した。
ロシア語でお茶のことを「チャイ」と呼ぶのは、広東語系の「チャ」から伝わったとされる。シベリアの北ルートから伝わったとのこと。
ちなみに、インドでもお茶は「チャイ」と呼ぶ。ケニアやウガンダなど東アフリカも「チャイ」と呼ぶ。この辺りの言葉の伝来の歴史はおもしろい!
銀の欠乏に加え、イギリスは世界のお茶貿易を独占したい意図もあり、中国に銀を渡すのではなく、逆に銀を引き出せないか模索する。
ここで生み出されたのが「三角貿易」だ。
三角貿易とは、イギリスの羊毛や綿織物をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国のお茶をイギリスへ輸出すること。
![](https://assets.st-note.com/img/1679119095909-FLJjrEJ9TZ.png?width=1200)
アヘン自体は、インドとの貿易以前から薬用として輸入していたが、インドとの取引を機に、麻薬として蔓延していく。
もともと中国ではアヘンはポルトガル商人によって医薬品として輸入され、その輸入量は年間約1000箱に過ぎないものでした。ところが1830年ころから急激に輸入量が増大し、なんと2万箱。35年には3万箱、39年には4万箱へと激増していました。中国国内では逆に銀が流失し財政が窮乏するとともに、アヘンよって風紀の乱れなど社会が混乱してきました。
中国国内でアヘンの中毒者が増え始める。
中国側もこの状況を放置できないまでに社会が悪化する。
1839年、中国では林則徐がアヘン取締りを強化。同年、イギリス人の船乗りが泥酔して中国人を殺害する事件が起こる。イギリスは中国への犯人引き渡し要求を拒否。その見せしめに中国はマカオを封鎖する。
翌年1840年に、イギリスは海軍を派遣。アヘン戦争となる。
アヘン戦争に勝利したイギリスは、香港を獲得し、さらに上海など5つの港を開港させる。
アヘン戦争を機に、イギリスは中国からのお茶の輸入は増大させる。
数千年秘匿とされてきたお茶の製法
しかし、中国からの輸入に頼っていては、まだまだ中国の言い値でしか買えない。そこで、イギリスは自分たちで茶葉生産を行い、茶葉の主導権を握れないか?模索を続ける。
しかし、茶葉生産はそう簡単ではない。
ハーブティーも”お茶”の一種と混同されるが、ハーブティーはお茶(Tea)ではない。
ハーブの葉っぱを摘んで乾燥させて煮だしたもので、茶葉ではない。特別な技術も必要としない。
しかし、茶葉は違う。試しに、茶葉を摘んで手の上でグリグリ丸めても、心地よい匂いはないし、そのまま乾燥させてお湯を入れても美味しくない。
お茶製法の技術は、発酵や酸化、酵素反応など、複雑な技術が使われる。(紅茶か緑茶などお茶の種類により異なる)
当然、中国国内でも茶葉栽培、製法は固く閉ざされていた。
そこで、イギリスはロバート・フォーチュンというスコットランド出身の植物学者を送り込む。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/100562133/picture_pc_e026bc723cae823aaa4bb6442da891e8.gif)
1846年、フォーチュンは、東インド会社の社員として、植物学者、英語講師として中国に派遣される。裏の目的はお茶の苗と製法を盗むこと。スパイである。
彼は幾度の失敗を繰り返した結果、中国人に変装し、中国奥地へ向かい、お茶の苗と製法を持ち帰ることに成功する。
これを機に、西欧では初めて、紅茶と緑茶が同じ茶葉から出来ていることを知るのである。
1650年にイギリスがはじめてお茶を輸入してから実に200年!
秘匿とされてきた中国の茶製法が盗み出された。
さて、イギリスは、ロバートが持ち帰った苗をインドに持ち込み、プランテーションとして大量栽培することに成功する。
インドのダージリン地方。ダージリンティーの誕生だ。
インドでのプランテーション栽培の成功で、中国の独占権は崩れ、安価で良質なお茶が世界に出回ることになる。
スリランカの茶産業を作った、二人のスコットランド人
さぁ、時は19世紀半ば。イギリスでは産業革命が終焉を迎えていた時期である。
1776年に、ワットが実用的な蒸気機関を完成させ
1785年に、カートライトが機械式の機織り機を製造
1825年に世界最初の商用鉄道ダーリントン鉄道が開通
当然、インドで始まった茶生産にも機械化の流れが導入される。
一方、ダージリンから遠く離れた小さな島スリランカ。
広大なインドでも、ネパールやブータンに隣接する西ベンガル地方と、南インドよりさらに南に位置するスリランカ島。3000キロ以上も離れている。
![](https://assets.st-note.com/img/1679119913820-VThfxO2WXp.png)
さて、スリランカは元々コーヒーの名産地。
17世紀のオランダ統治時代にコーヒーが伝わり、18-19世紀にかけてコーヒー産業は大きく発展していった。
しかし、1869年に発生したコーヒーさび病で、スリランカのコーヒー産業は一気に衰退する。
※コーヒーさび病とは、コーヒーの木を枯らしてしまう病気。
空中を浮遊する病菌がコーヒーの葉の裏に付着・浸食して光合成を妨げる。数年で木が枯れてしまう病気だ。
そのコーヒーの代替として育てられたのが、茶葉(Tea)である。
ここにスリランカの茶産業を世界一に押し上げた2人のスコットランド人がいる。
(フォーチュン然り、なぜ紅茶にはスコットランド人が多く関わっているのか、ご存じの人がいたら教えてほしい)
※[3/23追記]以下、スパイスアップの神谷氏より:
コットランド人がなぜ外に出たかは、スコットランドが当時、厳しい状況(貧しい)だったからだと思っています。ちなみに、紅茶のアッサム種を発見したのも、スコットランド人のブルース兄弟です。
紅茶の町ヌワラエリヤ(当時はコーヒー農園主たちの町)を開拓したのもスコットランド人が多かったらしい。
参考)一杯の紅茶の世界史
一人目は、ジェームス・テイラー
ジェームス・テイラーは、スリランカで最初に産業的な茶葉生産を始めたスコットランド人だ。
ジェームス・テイラーは「セイロンティー」の父と言われ、現在でも敬意を示されている。
![](https://assets.st-note.com/img/1679120233710-fTEGuZzyS2.png?width=1200)
スリランカ各地には今でもジェームステイラー像が多くあるそうだ。
※「セイロン」とはスリランカ国の以前の名前。1948年にイギリスから独立時はセイロンだったが、1972年に現在のスリランカ共和国に改称した。
テイラーは人生をスリランカの紅茶に捧げたそうだ。
テイラーは16歳でスリランカにやってきて、その後、一度もスコットランドに帰ることなく、農園会社に勤め上げ、紅茶栽培・製造の研究を重ね、茶園のバンガロー内で亡くなります。
テイラーは控え目な人で、農園協会からその功績を讃えられるも、会合には参加せず、亡くなる1年前に農園会社を解雇されています。
さて、実際に栽培してみると、、
スリランカの気候が茶栽培に非常に適していると気づく。
インドの茶葉は、収穫時期に応じて、「ファーストフラッシュ」「セカンドフラッシュ」と呼ばれる。
日本茶の「一番茶」「二番茶」と同じだ。春に摘まれたお茶を「一番茶」(ファーストラッシュ)、夏に摘まれたお茶を「二番茶」(セカンドラッシュ)と呼ぶ。
つまり、インドのダージリン、アッサムでは3月から11月が収穫のシーズンだ。
一方、スリランカで茶栽培を始めると、1月から12月まで年中栽培・収穫できることに気づく。
もちろん、時期に応じて気候は異なるため品質の違いはあるのだが、年中休みなく収穫できるのは大きい。
そこでイギリスは、インドの生産よりもスリランカの生産を重視する。
当時、開発された新しい機械はインドよりも先にスリランカに導入されていたようだ。
150年経った現在でも、当時の機械が使われている現場が存在する。
Ambaの人曰く、「150年前の化石が、21世紀になっても使われていることは、スリランカの茶産業がいかに衰退しているかを示している。
一方で、現代でも使われている機械。150年前の紅茶産業にどれだけの革命を起こし、生産量を爆上げしたかは想像に難くない。」と言っていた。
![](https://assets.st-note.com/img/1679120660691-aUnWTt2ANz.jpg?width=1200)
もう一人のスコットランド人、トーマス・リプトン
さて、いくら機械化が進み、生産効率が爆上がりしても解決しない課題がある。
それが、茶畑でのお茶摘みの工程。
その後の工程をいくら機械化して効率化しても、一番最初の「茶農園からお茶の葉を摘む」のは機械化できない。
このボトルネックは、現代のスリランカの紅茶産業の課題にも繋がり、Amba Estateが起業した大きな理由にもなっている。ここについては次回述べたい。
※現在、日本では光学選別により茶摘みの工程までも機械化している例があるそうだ。しかし、現代でも世界の9割以上は、茶摘みの作業は人間の手で行われている。
そう!茶栽培をするには、大量の労働力が必要になる。
しかし、小さな島のスリランカ。ここでは人手が足りない。。
コーヒー栽培の時から面積の小さいスリランカでは労働力不足が課題であり、歴代の旧宗主国は隣国インドなどから人を連れてきていた。
茶栽培でも、インドなど各地から労働力を集めてくる。
※[3/23追記]スパイスアップの神谷氏より
タミル人はイギリス人によって強制的に連れてこられたと言うよりも、南インドでの大飢饉のため、生きるためにタミル人は各地に渡っているようです。同じイギリスが植民地としていたマレーシアやシンガポール、モーリシャスに仕事を求めてタミル人が渡ったと。
なので、AMBAの元々の農園主はタミル人なのです。奴隷労働、強制労働で連れてこられたタミル人が農園主になったと言うのがどうも理解できなかったんだけど、自ら仕事を求めて渡り、蓄財して労働者ではなく、農園主になったタミル人がいたわけです。
参考)スリランカ紅茶のふる里
(なるほどね。当たり前だけど、実際には細かい複合的な要素がある。ストーリーの分かりやすさを優先して真実を誇張して伝えないように、気を付ける!)
ここでキーになるのが、もう一人のスコットランド人、トーマス・リプトンだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1679121195063-zPBKgvM389.png)
現代でも世界有数の紅茶メーカーとして有名な「リプトン」の創業者だ。
リプトンは雑貨店ビジネスで財を成し、銀行家からスリランカへの茶園の投資を勧められてスリランカを訪れ、紅茶ビジネスを始めます。スリランカに滞在したのは2年ほどだったようです。
ちなみに現在、リプトンはスリランカからを撤退しており事業は行っていない。
リプトンは、ユニリーバに売却されたのち、スリランカから撤退する。
さらに、そのユニリーバーも2021年にリプトンなど紅茶事業を投資ファンドに売却している。
さぁ、このリプトンは、どうやって労働力不足に解を示したのか。
1871年に食料品店を開業したリプトンは、瞬く間に商才を発揮し、1890年にはイギリス大都市を網羅する小売ネットワークを構築する。
そして、1888年に、紅茶ブームに合わせて紅茶事業へ参入。1890年にセイロン島(スリランカ)へ視察。紅茶栽培を始める。
彼が導入したシステムは、
小さな部屋に家族で住まわせる。その小さな部屋を10×10合わせた区画を作る。これで100世帯が住む区画ができる。
各世帯で、母親(女性)は茶摘み。父親(男性)には茶製造をさせる。そして、娘は母親を手伝わせて、息子は父親を手伝わせる。雇用主が研修を施さずとも、家庭内で仕事のノウハウが伝授される。
その家庭で生まれた子供は、学校も行かず、教育もなく、幼少期kからひたすらお茶作りしか関わらないので、何世代にもわたって、労働力が確保できる。
部屋は低品質な質素な住居空間。他にやることもないので、子作りが主体になり、多くの子供が生まれる。
これで何世代にも渡って労働力が確保できる。という仕組み。
お気づきだろうが、資本主義のビジネスの側面から見ると生産量は爆上がりさせた画期的な方法だが、とんでもない人権侵害の仕組みだ。
当時、産業革命を経て、工場労働者という概念が広がり、本国イギリスでも、アメリカでも、労働者と資本家間の貧富の格差など、社会問題として認識され始めた時期だ。
現代の価値観に合わせたら、大量の奴隷労働を生む人権侵害、強制労働、児童労働のオンパレードな仕組みである。
このせいもあるのか、ジェームス・テイラーは「セイロンティーの父」として尊敬を得ている一方、今でもリプトンの評判は良くないとのこと。
小さな島が世界の茶生産を担う!
こうして、スリランカのお茶は、
一年中採れる最適な気候
イギリスの技術を結集した最新鋭の機械設備
安価で大量の労働力
を得て、世界トップの生産量を誇るまでになる。
紅茶と言えば「セイロンティー」と言われるまで世界に知れ渡る。
このマーケティングには、リプトンの「茶園からそのままティーポットへ」というキャッチフレーズも後押ししたのだろう。
広大なインドの脇にある、小さなスリランカ島が世界の茶生産をリードする!
衰退するスリランカの茶産業
さて、一時期は世界トップの生産量を誇っていたスリランカも、現在はスリランカの茶生産量は世界で5位にまで減少している。(輸出量は世界4位)
![](https://assets.st-note.com/img/1679121465622-mg0HX6YhG7.png?width=1200)
生産量の一位は断トツで中国だ。
2020年の茶生産量は約700万トン。うち中国が300万トンを生産する。
2位はインドで半分の約150万トン。
そして、3位は東アフリカのケニア!57万トン。
つい最近まで4位はスリランカだったのだが、どうやらここ数年でアルゼンチンに抜かれたようだ。
現在のスリランカの生産量は27.8万トン。
1位の中国の1/10しかない。
ちなみに、輸出になるとケニアが1位となる。
他作物も同様だが、中国は生産量は多くても、国内消費も多いため、輸出量は少なく2位となる。インドの輸出量が少ないのも同様の理由だろう。
一方のケニアは生産量の大半を輸出に回している。
ただ、付け加えると、ケニアは人口が5000万人強。紅茶文化で朝食は必ず紅茶とともに始まる紅茶大国だ。
筆者もトータル1年半ほどケニアに住んでいたが、どこの家庭にいっても、どんなに田舎にいっても、お茶が振る舞われる。
国内消費も多そうだが、それでもデータによると大半の茶葉は輸出されているらしい。
現在でも、世界の茶消費量はぐんぐん伸びており、今後も途上国を中心とした経済成長で増加すると予測されている。
現在、生産量5位に転落したスリランカ。
しかし、今後も生産量が増える余地はなく、近い将来、6位、7位へと転落すると言われている。
さて、「なぜ、スリランカの紅茶産業は衰退し、今後も回復の兆しがないのか」
ここに、現代にも繋がる「労働力」の問題があり、Amba Estateが取り組む社会課題にも繋がる物語へ発展する。
次回!Amba Estateの解決する社会問題へと迫る!
※一回目が歴史だけで8000文字を超える長文となってしまった。ただ、この歴史がAmbaのビジネスモデルへの理解度が高まるので楽しみにして頂きたい。
では、次回は本編。Amba Estateの事業について!
※読んでいただけたら、よかったら「スキ」「フォロー」をつけていただけると嬉しいです! 今後の励みになります~!
いいなと思ったら応援しよう!
![Jun Ito](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/141011661/profile_47dbe813851826b125aa2f63145d3370.jpg?width=600&crop=1:1,smart)