【神奈川のこと51】東林間の10年(相模原市南区)
先週、義母の墓参りのため、家族4人で東京都町田市へ出かけた。帰り道、相模大野駅ビルの「とんかつ和幸」でランチ。その足で、かつて10年間住んだ街、東林間へ寄った。
なので、これを書く。
平成8年(1996年)11月末に結婚して、鎌倉を離れた。1年間は、妻の実家がある東京都町田市に住んだ。その後、相模原市の相模大野に引っ越して4年暮らした。
平成14年(2002年)、同じ相模原市の東林間にできた新築のマンションへ引っ越し、以降、平成24年(2012年)夏に鎌倉に戻るまでの10年間を、ここで過ごすこととなった。
この10年間はどういう時期であったか。
それは、結婚して6年目。それまで子どもを授からなかった私たち夫婦に、長男が誕生し、その2年後に次男が生まれ、家族が2人から4人へと変貌を遂げた時期。子どもは持たないまま、夫婦2人で老後まで暮らす。そうした運命を半ば受け入れかけていた矢先、妻は急に母親となり、私は慌てて父親となった時期。
仕事では、29歳で転職して入った2社目の会社が急成長を遂げ、たくさんの出逢いと別れ、役割の変化、上場やリーマンショックなどの揺さぶりがあった時期。そして3社目への転職。そこで東日本大震災を経験し、大阪単身赴任もあった時期。
そして、長男のくせして鎌倉に戻らず、将来をどうしていくのか。無言の問が突き付けられていた。優柔不断の葛藤の中、もがいていた時期。
光と闇が交錯したどっぷり30代、そして40代前半であった。
さて、東林間という街だが、それは小田急線の「ハブ」となる相模大野駅から、小田急江ノ島線で一つ下った、各駅停車のみが止まる「東林間駅」を中心に広がっている。文字通り、林がところどころに点在する静かな街だ。
我が母校、東海大相模高校が徒歩圏内にあるのだが、高校時代は、学校の最寄りとなる小田急相模原駅を利用していた。一年生の時、通学途中にお腹が痛くなり、一度だけ東林間駅で降りて用を足したことがあった。そして、改札を出て「東海大相模高校はどちらですか?」とお店の人かなんかに尋ねながら、母校までたどり着いたことを覚えている。
息子達は、林間のぞみ幼稚園に通った。「遊び」の精神を育む極めて原始的な教育方針で、実に伸び伸びと育ててもらった。我々保護者にも「真剣に遊ばせる」数々の行事があり、それらを通じて、地域にたくさんの知り合いと絆が生まれた。今振り返ってみても、素晴らしい幼稚園だったと確信する。
夏になると、メインストリートを使って阿波踊りの大イベントが開催される。各地から阿波踊りの「連」がやってきて、2日間かけて踊りまくる。この時ばかりは、普段静かなこの街に人が溢れかえる。いつも、東林間神社の一画をご近所さんと陣取って、へべれけに酔っぱらいながら「見る阿呆」となった。阿波踊りの独特のリズムや旋律が、身体の奥に眠る古代の細胞を呼び覚ます。気が付くと、号泣していた。
オールドヒッコリー、スーパー三和、三好のおだんご、やんちゃるジム、深堀中央公園、そして、魅惑の東林バーベキュー。どれも個性的だった。
なかんずく最も深く心に刻まれている場所。
それが松蔭公園だ。
自宅マンションの目の前に広がるこの松蔭公園で、子供たちとよく遊んだ。
長男と一緒に野球の練習もした。
夏には、園内のクヌギの木に集まるクワガタを探しに行ったり、仲良しのご近所さんたちと、ござを広げて夕涼みの会もやった。
松蔭公園の横には小田急江ノ島線が通っており、相模大野駅と東林間駅の間を、上ったり下ったり。時折、ロマンスカーが走り抜ける。踏切の音は、長男が赤ん坊の頃の子守唄であった。
巨人軍のエース、菅野智之選手を輩出した相模原市立新町中学校が、その線路を挟んで向かい側にあった。部活が盛んで、にぎやかな学校だった。
ある時、長男が松蔭公園で素振りをしていた。すると犬の散歩をしていた通りがかりの老人が長男に声をかけて、打撃の指導を始めた。何とそれは、我が母校、東海大相模高校の名を全国に知らしめた大名将の原貢(ハラ ミツグ)元野球部監督であった。「智之(菅野、つまり孫)もここでよく練習してましたよ」と言っていた。
と、妻から聞いた。
こないだの日曜日、小雨のぱらつく松蔭公園には誰もいなかった。
いくつかの木が切られていた。けれど、たたずまいは当時のまま。
不思議な寛大さをたたえたまま、変わらず存在していた。
光と闇が交錯した10年間を過ごした東林間。あれから9年の時を経て、住まいも職場も、そして生き方もだいぶ、変わった。