【神奈川のこと111】もう一人の恩師(鎌倉市立手広中学校)
令和6年(2024年)9月のある日。
朝日新聞の天声人語に恩師のことが書かれていて、
同級生の間でにわかに興奮が広がった。
よって、これを書く。
鎌倉市立手広中学校時代の数学は3年間、西先生であった。西→ニシ→24ということで、「24」という数字が大好き、それから「黒」が大好きで、毎日着ている服は黒、顧問を務められていたバレーボール部は男女共にユニフォームが黒、愛車のパジェロも黒であった。実に個性的。
教え方が抜群に上手で、ノートブックは1ページを半分に折って使うのが特徴的。これまたユニーク。
3年次は学年全体の高校受験担当をされていたのだが、その時はちょっと苦労されている様子であった。
私たちが中学校を卒業すると、学校を辞められて、中学生向けの数学の塾を開いた。それを聞いて最初は驚いたが、ああ先生がやりたかったことはこれなんだなと16歳の小僧ながらの合点がいった。先生の転身は生き方の選択という点において、当時の私たちにとって一つの社会勉強であったと今思う。
なぜ恩師かというと、母校、東海大相模高校3年の秋のこと。部活を引退し、進学率8割強の東海大学のどの学部へ進むかを成績によって選ぶ時期が来ていたのだが、数学がからっきし分からなくなっていた。
それ以外の教科は何とか大丈夫であったが、数学だけがやばかった。今で言うとガチで。当時で言うとマジで。サトシン的に言うと「けべっとろ」だ。
振り返ると、高校1年生の後半ぐらいからついていけてないことが判った。そこで、自分で考えたのか、母のアイデアだったのかは忘れたが、当時藤沢で塾を開いていた西先生に相談することにしたのだ。
西先生は、親身になって相談に乗ってくれて、快く家庭教師を引き受けてくださった。週に何日か、塾の仕事を終えた西先生は、愛車のパジェロやバイクで自宅まで来てくださり、高校数学の基礎を教えてくれた。私は、ノートブックを半分に折って学んだ。
先生お手製公式のあんちょこを必死に覚え、そのおかげで数学の成績は上がり、希望する学部への進学が叶ったのだ。
母は西先生が来ると、帰りにコーヒーとケーキを出したが、何回目かに西先生から「帰って食事が食べられなくなるので」ということで遠慮をされた。少し鼻にかかったあの声で、優しく母へそのことを伝えられた時のことがなぜか今でもずっと忘れられないでいる。
あれから36年が経った今年、令和6年(2024年)9月の朝日新聞天声人語に、「中学校で数学を教えてくれたのは西先生だった。大きな男の先生で、いつもニコニコ…」という文章が掲載され、小中学校の同級生で今や物理学のすんげぇ教授になっているジローが発見し、仲間内のSNSで教えてくれた。早速、湘南モノレール大船駅のホームに設置されている新聞の自動販売機で朝日新聞を購入。東京に向かう横須賀線の中で興奮しながら読んだ。
あの天声人語は一体誰が書いてるのか?ということが同級生の間で話題になっていると、エースケが「〇〇さん知ってるよ、姉ちゃんの友達」とコメントしていた。西先生は、手広中学校の前に隣の腰越中学校にいらしたので、その時の生徒だった方のようだ。
西先生とは今でもずっと年賀状のやりとりが続いている。平成27年(2015年)に鎌倉プリンスホテルで開いた同窓会にも来てくださった。
高校3年のあの秋、先生が塾を開いていなくてまだ学校の教員でいらしたら、家庭教師を引き受けてくださることは不可能だったのではないか。ああ、大学に行けたのは、間違いなく西先生のお陰なのだ。
先生の好きな24のつく2024年がもうじき終わる。今年も先生宛の年賀状をしたため、あの天声人語は誰が書いているのか?と投げかけた同級生ヒロシの実家近くのポストに投函完了。
本日12月29日。(2+9+1)×2=24。ヨシッ!