宇宙のカニ缶/2つのポスター
宇宙のカニ缶
ビデオでは、赤瀬川氏が宇宙の缶詰のカニ缶を開けている。
「あんなカニ缶を買ってきてよ」
と母が言う。母は宇宙の缶詰のカニ缶が欲しいわけではない。ただ、カニ缶が食べてみたいだけで、「あんな・・」には願望と好奇心が含まれている。
「積み藁」のポスター
森下画廊で、ポスターの額を買ってきた。特価品だったので、2つ買ってきた。一つにはゴッホのポスター、もう一つには、モネ展の「積み藁」のポスターを入れる。
「どうかな~。」
と母に見せる。母は疲れているらしく、茶の間で横になっている。
「ちょっと、起きてよ」
と催促する。母は、眠気を振りほどきながら、ちょっと、起き上がる。
「それ、夫婦岩?・・」
と言う。
美しい風景の中の、二つの岩を信仰の対象とする日本人の感覚と、移り行く陽を背景にした、大小の積み藁の中に美を見出したモネの感覚は、よく似ていると思う。何か拠り所となるような風景が、信仰を起動することもあるだろうし、絵画にも描く根拠が必要だ。岩や積み藁などの自然の造形に心を揺さぶられるという日常が、世界には溢れている。
『「積み藁」は幸福感を漂わせている』とカミーユ・ピサロが語っている・・
と、ウイキペディアにあるけれど、陽を浴びる「積み藁」は一日の時間と陽の温かさを一気に彷彿とさせる。
母が夫婦岩と間違えた「積み藁」は、1985年に岐阜県美術館で行われた、「印象派と埼玉ゆかりの画家」のポスターで、「ジヴェルニーの積み藁、日没」というタイトルが付いている。調べてみると、大小の積み藁は夫婦岩と同じ配置である。
落ちていく陽の温かい光が画面に散りばめられて、「幸せ」も、オレンジ色の光の粒子の中に残されている。
母は、震災の年に旅立ったので、もう、十年も経ってしまったんだと思うと
感慨深い。メモを辿りながら、母との生活の断片を、文字で繋げてみた。
見出し画像の「2つの鍋」について
母を失くした当初、夜の暗闇を、針穴写真の現像で、ささやかな楽しみに変えていった。毎日5缶ほど撮影して、お風呂場や茶の間で現像する日々が3カ月以上続いた。毎日、毎日続けられるほど、現像の面白さは飽きがこない。尽きることのない、寛容性がある。その頃、みだし画像にあげた「2つの鍋」の写真を、よく撮影した。丼用の鍋が発しているステンレスの金属感が気に入っていたし、黒い取っ手も、何か、礼装をした時のように、礼儀正しく真っすぐで、しかも、遠慮深いエンタシス状だ。この丼用の鍋は、椅子と同じように、背景に人が感じられる。見出し画像の2つの鍋は、母と私用の鍋である。それで、並べていると、見えない母が現れる。
使って、2日ほどすると、時間を変換した埃が、うっすらと被っている。それをきれいに洗って、可視化された過去(埃のこと)を取り払うと、ステンレス感が、さらに、増すことになる。そしてまた、新品の埃がうっすらと誕生するのである。