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岡本太郎は、感性はみがくものではないと言った。ん?どういうこと?

わたしは、Twitterで本から一節を抜粋して呟くことがあるのですが、そのひとつに戦後の代表的な芸術家・岡本太郎の次の言葉があります。

感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。感性というのは、誰にでも、瞬間にわき起こるものだ。感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、はじめて自分全体の中に燃えあがり、広がるものが感性だよ。(岡本太郎『強く生きる言葉』イースト・プレス)

わたしがこの言葉を知ったきっかけは、美術評論家・椹木野衣さんのエッセイ「感性は感動しない」です(同じタイトルのエッセイ集の巻頭に所収されています)。

このエッセイの冒頭で引用しているのが、この岡本の一節だったのです。

ちなみに、Googleブックスで読むことができます。


わたしは、このエッセイを読んで、岡本の言葉に惹かれ、Twitterで紹介することにしました。

しかし、何の説明もなしにこの一節をTwitterでつぶやいてみても、読んでくれる人にその言葉の意味まで伝えることは難しい。

急にそんなこと言われてもなんのことやら、となっても仕方のないことだと思います。

そこで今回は、この岡本太郎の言葉の意味を、わたしなりに語ってみることにします。


まず、感性ってそもそもなんなのでしょうか。

辞典を引いてみますと、次のような意味だとされています。

①外界の刺激に応じてなんらかの印象を感じ取る、その人の直感的な心の働き。〔欲求・感情・情緒に関わる点で、意思・知性と区別される〕
②感受性
(『新明解国語辞典』第七版 三省堂)

感性とは「直感的な心の働き」のことです。

その人の経験・記憶によってかたち作られている心の器官のようなものだと考えてもらえればよいかと思います。

辞書にあるとおり「欲求・感情・情緒」は感性によって直感するものであって、論理的に導き出されるものではないというのも大きな特徴です。

自分の心が感じ取った内容を言葉で説明するのは、とても難しいことです。

たとえば、美や愛。もしくは、大切な人との別れ(もう4月ですね)。

あまり表立って言えないようなネガティブな感情でもいいかもしれません。

どれも筆舌に尽くしがたいものですよね。

そういった言葉にできないものを表現する手段、観る者がそれを感じ取る手段として芸術というものはあるのでしょう。

つまり、芸術の源泉にもなるような、言葉にできない感覚を捉える器官が感性なのです。


では、岡本太郎の言葉に戻りましょう。

感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。感性というのは、誰にでも、瞬間にわき起こるものだ。感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。

ここで岡本は、「感性はみがくものである」という考えを否定しています(これは別の記事で解説したE.H.ゴンブリッチ先生の考えと対立していて興味深いです)。

この「みがく」というのは比喩表現ですが、自分の意のままにかたちを決め、整えていく行為をイメージすることができます。

原石をカットして宝石にしていくようなイメージですね。

岡本は、感性とはそういうものではなく、「誰にでも、瞬間にわき起こるものだ」と述べています。

これは、間欠泉のように突然なにかが噴き出してくるような情景をイメージできそうです。

つまり、感性とは自分でコントロールできるようなものではないということです。

岡本は、感性をみがくことを目的にしていろんなことをしてみても、おそらく上手くいかないだろう、感性というのはコントロールできるようなものではないからだ、と言いたいのだと思います。

椹木先生は、「感性は感動しない」でこの岡本の言葉に同意し、エッセイの最後を次のように締めくくっています。

 誰でも、自分の心の中身を知るのは怖い。だからふだんはそっと仕舞っておく。けれども、ときに芸術作品はこの蓋を容赦なく開けてしまう。冒頭に掲げた岡本太郎の言葉にある「いろいろな条件にぶっつける」というのは、まさにそのことだ。ゴツゴツとした感触がある。なにか軋轢が生じる。自分が壊れそうになる。こうした生の手触りを感じるとき、私たちは、自分の中で感性が音を立ててうごめいているのを初めて知る。

岡本の言葉をさらに展開させ、感性の生々しさと、それを引き出す芸術の力(威力といったほうがいいかもしれません)について伝えようとしていることがわかりますね。


では、岡本が言うように、もし感性がみがけるものではないとしたら、よりよい感性はどうすれば身につけられるのでしょうか。

誰だって、よりよいものにしたいと思うのは自然な欲求ですよね。

そこで、よりよい感性とはどのようなものなのかを考えてみましょう。

岡本は次のように言葉を続けています。

自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、はじめて自分全体の中に燃えあがり、広がるものが感性だよ。

これは、主体的にいろいろな環境に自分を置いていく、すると感性というものは後からついてくる、という考えだと理解できます。

「ぶっつける」「燃えあがる」という言葉には、格闘技でもしているかのような激しさが感じられますね。

そして、戦いの後の充足感のように、感性がじわじわと「広がる」、そんなイメージでしょうか。

逆に言えば、主体的に行動しなければ感性が燃えあがることはないわけです。

つまり、感性はみがけるものではないし、どのようなものになるかは後からでしかわからないけれど、豊かな経験によって広がっていくものではあるんです。

「広がる」は、「育つ」と言い換えていいと思います。

これはもはや、感性がどうこうではなく、人間はどのように生きるべきかというスケールの大きな話ですね。

けっきょくは、自分の気持ちに正直になって格闘しながら生きることでしか、よりよい感性を手に入れられないのだと思います。


この岡本の言葉の魅力は、たとえどんなに名作と呼ばれている作品であっても、感動できなくていいのだという自信をくれるからだとわたしは思います。

よりよい感性の在り方が人それぞれというほかないのなら、どのような芸術に感動するのかも人それぞれ違っていて当然ですよね。

もちろん、ある作品が名作と呼ばれるのは相応の理由があるので、それを軽視していいわけではないですが。

自分の心に正直になればなるほど自由に芸術と向き合えるし、それがまた自分と向き合うことにつながります。

名作の良さがわからない自分はどこかおかしいんじゃないかと落ち込むよりも、いっそ開き直って好き放題に思ったことを言ってしまって、魅力的な作品が見つかったらとことん向き合ってみるというほうが健全だとわたしは思うのです。

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