努力クラブ『世界対僕』感想雑記

合田団地という名の小説が、これまでより少し大きめの改段落をしたのだと思った。

観劇からすっかり日が経ってしまったが、いちおう整理しておくか、と、だらだら書いている。本当は観てすぐ書くつもりだったのに、心の中の実行部隊が大方別業務で忙しく、人員を割けなかった。あまり推敲できなかったが、内容自体は伝わるだろう。

持論だけれど、自団体で公演を打つときにだけ脚本を書き下ろすタイプの劇作家は、作品を仕上げるたびに人生にひとつのピリオドを打つんだと思う。そのあとも文章は続く前提の、その『世界対僕』という一旦の結末が、合田団地という人間にとって他作品より少し大きな意味を持っていたように感じた。だから、これはピリオドや改行というより、さらに向こう側の意義を評し、改段落と呼びたい。

本作に多く用いられた、入れ子構造のメタフィクションに始まる古典的手法の数々が、徹底して本質を勢いづけるための道具に過ぎなかったところがよかった。手法として新しいものがなくとも、舞台の隅々にまで今この世界でなお生き続けている合田氏の精神が横溢していたがために、作品それ自体は、みずみずしく新鮮で、新しかった。手法の新しさとは作品にとっては結局瑣末なもので、その手法が、顕現されるべき作家の深い精神と、どのくらい親密な関係を築けているかだけが、芸術にとっては大事だ。
その意味でむしろ、古典的で「ベタ」な造りであればあるほど、構築された劇世界からメタ世界へと次々に脱していく展開を見せる本作にとっては好都合だった。要するに「フリが利いている」のだ。

本作はたしかに「世界対僕」だったが、この「世界」に代入されるのは、合田氏から見た世界であり、合田氏の周囲の人々であり、演劇であり、合田氏自身でもある。
合田氏のつくるシーンには、人と人が(特に男と女が)一対一で話すものが非常に多い。それは、合田氏の精神世界のほとんどは、対人関係によって築かれてきたことを示唆している。だから「世界」に第一に代入されるのはおそらく「人」であろう。
次に「演劇」だろう。作中の合田団地(そして現実の合田氏)からは、対人関係によって織りなした“世界”における悩みを、演劇でなんとかしようという気配を感じた。しかし、人間が人生で直面する最も厄介な相手とはすなわち自己の精神なのだから、それを簡単にどうにかできるという事はなかなかないもので、得たい成果が得られないとなると、本当は敵でも味方でもない演劇のことも、いつしか敵対視せざるをえなくなっていく。

「砂浜純愛編」の意味が正直よくわからない人もいそうだけれど、僕はあれを、合田氏の精神世界における「“世界”の中の自分の立ち位置」が示されたシーンであり、作品としての秀逸なギミックの一つだと解釈している。
あの合宿に、同田団地の姿はなかった。いわゆる青春の仲間に彼は入れてもらえない。
また、それまでは「劇世界」「脚本世界」をメタ視するだけの展開が続いていたところ、このシーンに至って、逆に、合田氏の完全な精神世界に“入る”のである。本作はこういう、世界を脱したり入ったりするステップが軽快かつ違和感がなく、世界と“僕”との対立構造を見事に表していた。

そして、僕が一番してやられたと思ったのはやはり、終盤で合田氏の役が譲渡されるギミックだ。既にツイッターの感想ツイートでも誰かが指摘しているような「幸福な合田⇔不幸な合田」的な対比にもなり、また「幸福な合田」に作者の理想の世界線を見た人もあろう。ただ僕がここで注目したいのは、合田役を譲渡したことにより、役のなくなった西マサト氏がその後「真の合田団地」を演じることになった点だ。
前提として、人間は生きる中で、あらゆるペルソナを自身に備え付ける。その種類は、社会性を保つのに必要というだけの便宜上のものから、自己防衛のためのものまで様々あるが、ここで西マサト氏が手放したのはまさしく、合田団地が自己実現あるいは自己防衛を目的にこしらえた「演劇人・合田団地」というペルソナである。
けれども、ある一人の女性は、もはや何者でもなくなった(かのように見える)かつで合田団地であった男を見て、「合田くん」と呼ぶのだ。これは取りも直さず、後付けでいろいろ背負いなんとか輪郭を保ち世界にしがみついている「合田団地」としてではなく、先天的な人間性それ自体を視てくれる、まさに彼が待ち望んだ人物の登場にほかならない(はずだ)。

にも拘らず、これも評判高いラストシーンへと繋がる。
「ごめんね、こんなセリフ喋らせちゃって」この言葉によって、待ち望んだ人物の存在すらも、フィクションに過ぎないと断じてしまうのである。これを諦念あるいは絶望と呼ばずなんとしよう。シーンの前後に置かれた「今からラストシーンです」「終わりです」というナンセンスな注釈は、ギャグでも照れ隠しでもなく、人生とか世界なんてそんなもんじゃないですか、と切実な冷笑を浴びせるかのようだった。
そうして彼は、世界を、ひいては自己自身を諦め、孤独を引き受ける。孤独でない自己などこの世に存在しないれども、それでもそういう自己の本質の実態を掴み、受け入れることには、計り知れない価値がある。

僕は正直、本作が「作者のつまんない自分語り」「オナニー見せられた感じ」などと不当な評価を受けるのではないかとひやひやしながらツイッターを見ていたが、思いのほかそんなこともなく安心したものである。自分語りやオナニーがおもしろくないわけではないのだ。オナニーに罪はないのである。おもしろくないのは、まったく自己批評的でなく、世界を視ておらず、哲学に欠ける、精神の浅いオナニーなのである。
また感想を見ていると、演劇関係者にしか伝わらないんじゃないか、合田氏を個人的に知る人にしかおもしろがれない部分があるんじゃないか、といった声も見られたが、そんな事はまったくないと思う。本作の本質はべつに、演劇あるあるネタにもないし、合田団地あるあるネタにもない。ただ、合田団地という小説のあらすじに、演劇と、合田団地本人が関わってくるだけだ。あと、あんまりいないと信じているが、合田氏の書いた作品を観にきておきながら合田氏に興味がないという人は、そもそも芸術とか観ても時間とお金の無駄だから今後は辞めたほうがいい。友達とユニバとか行こう。

以下、蛇足。
・舞台美術の謎の四角形たち。合田氏の精神世界を邪魔しない抽象的な見た目に加え、カラフルな色合いが合田氏のポップな性格を表している気がしないでもない。真ん中の大きい四角が合田さん本人ということなのだろうか。違うか。
・Barに行った経験がないという注釈が入るなら、注釈のないその他の出来事については経験があるという解釈が可能になる。女の子とふいに景色を眺めながら話したり、性風俗店のシーンだったり、女の子と一緒に逃避行に出たり、女の子と帰り道に居酒屋に寄ったりしたことも、実体験をもとに描かれているのならおもしろい。


努力クラブ第 16 回公演 『世界対僕』
作・演出=合田団地
2023年2月9日(木)~12日(日)
会場=ロームシアター京都ノースホール
【出演者】
浅野有紀
阿僧祇(白河夜船)
伊藤隆裕(柳川)
岩越信之介(劇団なべあらし)
岡田菜見(下鴨車窓)
北川啓太
佐々木峻一
澤田誠(黒い犬)
瀧口蓮時
橘カレン(幻灯劇場)
月亭太遊
内藤彰子(喜劇結社バキュン!ズ)
西マサト
もえりーぬ
横山清正(気持ちのいいチョップ)
乱痴パック(演劇集団Q)
【スタッフ】
舞台監督=長峯巧弥
美術=松本謙一郎
音響=森永恭代・浅葉修(chicks)
照明=渡辺佳奈
撮影=中谷利明
制作=築地静香
制作補=Jaz
応援=沢大洋
★ロームシアター京都×京都芸術センターU35 創造支援プログラム“KIPPU”
令和4年度文化資源活用推進事業

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