かまわれたいのにかまわれない
純粋な好意は好かれる
人も車もまばらな朝の表参道で、久しぶりの人に出くわした。
私のことが大好きな彼女の盛大なビッグハグからの、軽く肩を押されて道の端へと導かれ、手を握られたまましばしおしゃべり。
国によって、挨拶のしかたや、親愛の表し方とか、礼儀作法は違う。
アメリカのおばあちゃんはポーランド系の人で、挨拶はフレンチキス。
知らなければ、日本人ならとっさに体を引くかもしれない(笑)
ふりかえってみて、「そういえば、日本人はこういったスキンシップをしないな」と。
知ってるけど、忘れていたというか。
ばったり会った彼女もヨーロッパの人。
これが彼女の国のふつうなのかはわからないけど、どちらにしろイヤじゃない。
純粋な好意を向けられるのはイヤじゃない。
子どもみたいに無邪気に好きっていう感情だけで慕われるのはむしろうれしい。
だけど、ここに見返りを求める邪気や我欲が入ると、気持ちが悪いものになる。
かまってちゃんはかまわれない
かまってほしいオーラ満々の、"かまってちゃん"。
こういう人は、相手への好きという好意や、尊敬とかより、自分をかまってほしい欲望が溢れ出ている。
ねぇねぇ、(私・僕・俺)のことかまってよ。なんでかまってくれないの。もっとかまって、もっと見て、もっと気にかけてよ。
ってこんな人、大抵の人にとってはうっとおしいか、気持ち悪いか、めんどくさいでしょ。
そうやって近寄ってくる人や、人の顔色をうかがってばかりの人を大抵の人は好まない。
他人から評価がほしくて、かまってほしくてなにかをする、自分ではなにも決定できない、自分軸じゃなくて他人軸な人に人は魅力を感じない。
かまってちゃんはかまわれない。
かまわれる人になる
かまってちゃんに足りないのは、
・自分の力量やキャラクターを客観的に見る
・人から自分はどう見えるのか正しく認識する
といったこと。
自分のことをよく知るこの力のことを、自己認識力というけれど、ベクトルが外にばかり向いているとこの力はまったくつかない。
人にどう思われているか、どう評価されるか、どういった扱いを受けるか、あの人はなにをしているか、明日はなに食べようか…。
こういった意識は、外にベクトルが向いている状態。
誰でも人間これが通常なんだけど、かまってちゃんはこれが強い。
かまってちゃんとは逆に、自分はどう思うのか、自分はどう感じているのか、自分はどうしたいのか…と、ベクトルを内に向けることができる人は、実は他人の感覚に敏感だ。
人にされて嫌なことは人にしない。その人がされて嫌だろうことを察知するのも敏感。
自己認識力が高いから。
逆に、かまってほしいばっかりに、人の顔色をうかがっていると、自分がどう見られているか正しく判断できない、自分の立場やキャラがわからない、余裕がないから周りに気が利かない。
かまってちゃんはかまわれない。
かまわれたいと思っている間は、ずっとかまってちゃんのままだ。
人にかまわれる人は、
・人からの評価だけを気にしない。
・目的がかまってもらうことじゃない。
・自分の好きなことや自分自身を大事にする
・自分を高めることをする。
人を大事にする、思いやる、敬うを自然にやるから、人に気をつかわせない気配りができる。
かまわれなくてもかまわない、安心できるようになるために、この世に自分一人になってしまって、誰からの評価がなくても楽しめることや、やりたいことに才能や能力を使うようにする。それがなにかを探すことから始める。
人の評価が気にならなくなって、かまってほしい欲が自然となくなって、本来の自分でいられるようになるから。
かまわれなくてもよくなると、かまわれるようになるんだから、人ってほんと不思議。