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No.92から 記録 ダカール2006 - アフリカ時代後期

ダカールラリーの南米移転前夜とも言えるポルトガルスタートの2006年大会を振り返る。モロッコ~モーリタニア~ギニア、そしてセネガル。ファラオでのリシャール・サンクの死、そしてこの年は初出場のアンディ・アルデコットが砂漠に散った。ラリーは確かに転換点を迎えていた。

2005年12年31日~2006年01月15日
ポルトガル、スペイン、モロッコ、モーリタニア、マリギニア、セネガル
総走行距離 / 9,043km

カルデコット悲報

 ラリーにはこうしたリスクがつきものだと理解しなければならないのだろうか。1月9日月曜日。ヌアクショット~キッファの第9ステージで、アンディ・カルデコット(KTM)がクラッシュ、即死した。SSをスタート後約250kmの地点。11時31分の出来事だった。カルデコット転倒の緊急連絡を受けたメディカル・ヘリは11時55分に現場到着。しかし医師団はその2分後にアンディの死亡を確認した。直後に事故現場を通りかがった池町佳生(チームランドクルーザートヨタオートボデー)は、相当のスピードで縦回転して地面に叩きつけられたように見えたと、ぐちゃぐちゃに破損した彼のKTMの様子からそう語った。

 41才のアンディ・カルデコット(オーストラリア)は3度目のダカール出場だった。オーストラリアンサファリのチャンピオンでもある彼は、実は今回代役としての出場だった。KTM-REPSOLのジョルディ・デュラン(スペイン)が直前の怪我で出場を断念。2005年には総合6位という成績を残しているカルデコットに白羽の矢が立ったのだ。カルデコットにとっては突如舞い込んだチャンスだったが、彼を誘ったKTM-REPSOLのジョルディ・アルカロンス、クラッシュしたKTMに乗るはずだったジョルディ・デュランの心痛はどれほどのものだろうか。残された家族の思いははかりしれない。
 翌日、キッファ~カイエ間283kmの短いSSは、追悼の意味を込めてキャンセル(2輪のみ)。ラリーの一行は深い悲しみに包まれた。

 --2004年ファラオラリーでのリシャール・サンクの死、続いて2005年ダカールのファブリツィオ・メオーニの死。続けて二人のファクトリーライダーを失ったKTMは、昨年のラリーの直後にクロスカントリーラリーからの撤退をも示唆したコミュニケを発表。その後、追いかけるようにラリー活動継続の意志を表明するが、同時に会社を挙げてラリーの危険性排除に取り組んでいくことを打ち出した。2輪エントラントの80%を擁する最大勢力としてのKTMスポーツモーターサイクルAG、FIMエンデューロ&クロスカントリーラリー委員会、ダカールラリーの主催者であるASO、この三者のコンセンサスによって、ラリーの高速化を抑制しようということだ。
 その取り組みが具体的なものになっているということは、ダカール2006の直前になって、KTMラリーチームの代表者ハンス・トゥルンケンポルツの署名によるコミュニケによっても再確認されていた。ひとつは、ツインシリンダーの禁止、ひとつは450cc以下クラスの新設普及。またGPSの機能制限を機軸としたナビゲーション技術重視のルール変更、GPSによる150km/hの最高速度制限も導入。さらに最低航続距離を250kmに引き下げることで、積載燃料を減らし、結果的に車両の操縦安定性を確保させた。過去の重大事故の多くが、燃料補給直後、フルタンクに近い状態で起こっているというデータを受けてのことだった。
 賛否両論のあった、これらの思い切った変更の数々は、おそらく実効性のあるものだったに違いない。150km/h制限のルールは厳格に適用され、カルデコットのチームメイト、チリのカルロ・デガバルドが1時間のペナルティを受けた--主催者は毎日のゴール後すぐにGPSのデータログを回収して地点間の平均時速を解析する--。デガバルドはSSでトップタイムを連発し、総合優勝も射程に入っていのだ。

 しかしアンディ・カルデコットのクラッシュは、205kmの給油ポイントで彼の660Rallyのタンクを満タンにしてまもなくの地点で起こってしまった。奇しくも、KTMとFIMエンデューロ&クロスカントリーラリーコミッティが指摘した「フルタンクの危険」を再現して証明してしまったともいえるだろう。
 カルデコットの悲報は、サンク、メオーニの死に続いて、今後の2輪ラリーシーンに大きな影響を与えることになる。モーターサイクル、またダカールがさらに、若者たちに夢を与えるものであり続けることができるかどうか。そのこともかけての取り組みであって欲しい。


新たな選手層

 昨年に続いて、今年も本来のエントリー締切のはるか手前、7月で定員がいっぱいになってしまった。エントリー開始からわずか3週間だ。しかもその時点で200名ものオファーを断っていたというのだから、その人気の過熱ぶりには驚くほかない。日本のアマチュアライダーは、その時点ではエントリーの手続きをしていなかったが、日本のリエゾンオフィスが急遽日本人枠を確保して、柏秀樹、服部泰、堀田修、河合アユム、岩崎有男、片山晋也の6選手のエントリーをねじ込むことができたという。
 MOTO(バギー、サイドカーを含む)のエントリーは240台。オート、カミオンを含めて475台という大旅団である。ちなみに、もっともエントリー数が落ち込んだのは1993年、パリ~タンジェ~ダカールのルートをとった年の158台--モト48台、オート66台、カミオン45台という内訳--だが、現在のこの人気の要因とはいったいなんだろうか。
 ひとつにはユーロ経済圏の拡大が挙げられるだろう。1999年1月1日にユーロ経済通貨同盟が成立。2002年に単一通貨としてのユーロが登場してから、さらに拡充を続けるユーロ経済による活況が、これまで通過国ではあったが、参加国としてはマイナーだったスペインのエントラント増加を後押しした。EUROの高騰は弱いYENのユーザーには厳しいものだが、ユーロ経済圏の潜在的エントラントを掘り起こす力になっているのだ。昨年のバルセロナ、今年も同じくイベリア半島のポルトガル。スタート地がフランスではないということは、単に寒くて長いリエゾンが省略される、ロジスティックの負担が減るということだけではなく、他国のエントラントにとってハードルが低くなった印象を与えたに違いない。アメリカからも10チームが参加した。昨年アメリカではCATVで特集もののダカール番組が放映されたのだが、それだけがアメリカでのパリダカ人気での理由ではないだろう。スタート地がイベリア半島でなかったとしたら、どうだっただろうか。
 主催者ASO(アモリースポーツオーガニゼーション)による正式な発表ではないが、リスボンからのスタートは、地元関係機関との契約で今年から3年間が約束されているということだ。2007年、2008年まで、このラリーはリスボン~ダカール、あるいはリスボン~バルセロナ~ダカールになるのかもしれないが、とにかく温暖なイベリア半島を基点したルートデザインになりそうだ。
 だが、そうしたことばかりが昨年来のダカール人気を支えているわけではない。ダカールラリーそのものが持つ固有の魅力に、人々は強く引き付けられる。お金持ちのスポーツ、貴族の遊びとまで言われたこのラリーに、新しいエントラントの層が生まれつつある。ティーンエイジの多感な時期に、テレビでダカールラリーを知った、今は30代、40代のモータースポーツファンたちがそれだ。モーリタニア、テネレの砂丘群に孤独な戦いを挑んでいたかつてのヒーローたちに憧れ、いつかは自分もラリーマシンに乗ってダカールを目指すのだ。そんな思いを心のうちに温め、やがて年齢を重ねるうち仕事にも成功し、生活の基盤としての家庭もしっかりと築いた。「今こそ夢を実現する時!」。多くのプライベーターと言葉を交わしているなかで、今年はそういった選手が多いことに気がついた。日本からの参加者には、もとよりそういう選手が多かったのだが、ヨーロッパからの参加者にもそういう思いを持った選手が増えてきているのだ。今、ダカールはそうした思いを受け止めることができる存在になっているだろうか。

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