「ライフワークとは何か」 門永哲也 1-ON-1 Interview -
雪国に育った少年はいつしかモーターサイクルの世界に足を踏み入れ、夢と挫折の両方を経験する。自分のやっていることが、人の役に立たない無意味なことだと感じる日々もあった。再び前を向くことができたのはなぜか。人はなぜ悩みながらも生きるのか。モーターサイクルとともに歩む人生とは。
Text ; Hisashi Haruki
Images : Daigo Miyazaki, Future7Media
PROFILE
TETSUYA KADONAGA
門永哲也
1975年愛知県に生まれ3歳から富山県南砺市に育つ。トライアルIAライダー、Beta motor Japan代表
街に一軒の自転車屋で
一人っ子で近所に友達もいなかったせいなのか、ひとりで自転車に乗って遊んでいるのが好きでした。子供用の普通の自転車なんですけど、山の中を走っているうちに、自分でフェンダーとか邪魔なものを外してしまい、BMXみたいにして、坂道をスピード出して下ったり、やんちゃなことをして喜んでました。父を早く亡くしていたので、余計に一人で遊ぶのが普通だったんだと思います。母と二人で祖父母の家にお世話になってました。富山の山の中です。生まれたのは愛知でしたが、3歳の時に富山に越してきたんです。
小学校の5年生ぐらいかな。街に一軒ある自転車屋さんによく出入りさせてもらってて、そのうち自転車屋のご主人に「おまえそんな自転車でなにやってるんだ?」って聞かれて「山道を登ったり下ったり、スピード出して走るのが楽しいんです」と話したら、そうやってスピードを出して走るのもいいけど、トライアルっていうのがあって、それもいいぞって教えてくれたんです。
その自転車屋さんはオートバイも扱っていて、トライアルをやっているお客さんも出入りしていたんですね。そのお客さんがそのうち、近所でやっているトライアルの大会を見に連れて行ってくれるようになりました。その頃は中学生になってたと思います。
やってみたいなあ、と思いましたが中学生でバイクが買えるわけでもなく、ただ憧れているだけでした。
トライアルライダー
地元の高校に進学してもそんなに大きな変化はなかったですが、相変わらず自転車屋さんには出入りしていて、トライアルをやりたいという思いは続いていました。そのうち、中古のトライアルバイクを紹介されて…ホンダの200ccで12万円だったと思います。田舎の高校生には大金でしたけど、夏休みにがっつりバイトして手に入れたんです。街の中華料理屋でした。やっとバイクは手に入れたけど、運ぶ手段もなくて、とにかく自転車屋さんにバイクは預かってもらってました。でもそのうちに、またお店に出入りしている人たちが、そんなにやりたいなら、と一緒に連れて行ってくれることになりました。
それでやっとトライアルライダーになったんです。高校の2年です。近所の小さい大会から、中部圏内の地方選手権にも参加するようになって。その方たちには本当にかわいがってもらって。高校生だからお金もないんですが、遠征の費用も全部出してもらっていたんだと思います。すでに他界された方もいますが、その方々には本当にお世話になりました。
学業、就職、トライアル
母ひとりだったので、高校を卒業したら就職するつもりでいたのですが、母が「もうひとつ上の学校にも行きなさい」と、なぜかとても強く勧めるので、岐阜にある短大に行くことになりました。高山自動車短期大学っていうところで、生徒がモータースポーツもやっているらしい。要するにここだったらトライアルを続けられるかも、と考えたんです。それでトライアルも続けられることになり、1994年にIBに昇格して、IBの3年目でIAに昇格することになりました。トライアル選手としては本当に遅いスタートなんです。ただ本当に好きで、いろいろと応援してくれる人がいたから続けることができていたんです。
短大を卒業したものの、まだまだトライアルをやりたくなって、とりあえずコンビニでバイトしながらトライアルを続けていたのですが、たまたまその会社で異動が続いたこともあって、社員にならないか、と声がかかりました。社員イコール店長になって、ということで迷ったんですが、お店の運営をかなり任されるということで、自由裁量が大きくなる。これはトライアルをやる時間を増やせるのではないか、という動機で社員にしてもらうことになりました。
結局、10年間そこで働かせてもらうことになるんですが、振り返ってみると、そこで経営の基礎を学ぶことができたのかな? と思っています。小売店の運営や、本部の役割、お互いの関係なんかもそうですね。
世界との差に直面する
IBから昇格した1997年というのは、IAスーパークラスができる最初のシーズンでした。その年昇格したライダーは、1997年からIASになってもいいし、IAになってもいい、どちらを選んでもいいということになっていましたが、私はIAを選んだんです。同じ年に昇格した田中太一さんとかはIASを選んでました。
少し当時のトライアル界の話をしますが、日本のライダーの世界選手権への挑戦の第1世代は1990年からの成田匠さん。次が1995年からの黒山健一さんたちでこれが第2世代、その後、黒山さんや藤波さんたちを中心として、世界選手権と全日本選手権を行き来するようになるんです。
そうなると世界選手権を走っているライダーたちと、国内のレベルの差が大きくなりすぎて、IAクラスだけでは成立しない状態になってしまった。IAスーパークラスが新設されたのはそれが理由でした。
私もIASクラスを選択することはできましたが、そういう背景ですから、とても私が通用するレベルではなく、まずはIAでがんばろうと思ったのが理由です。
葛藤
結局、IASにまではなることはなく、ライダーとしては全日本トライアルから退くことにしました。スタートが遅いということもあるかもしれないですが、ライダーとしては凡人だったと思います。トップレベルに到達する選手とは違う、と。どんな選手でも、壁にぶつかる時があって、その時、自分は何のためにこのスポーツをやっているのか、と考える時期があります。その時、私は本当に楽しいからやってきたんだということがよくわかりました。山で自転車に乗っている時から、トライアルに憧れて、みなさんに助けられてトライアルを始めて、IAになって…。楽しいという気持ちに支えられてやってきたということがよくわかったんです。さらに上を目指すためには、楽しい、ではすまない努力を厭わない強い動機が必要なんだと思います。トップレベルでレースを続けるにはいろいろなサポートを受ける必要もあります。楽しい、という気持ちだけでやるには、長く続けすぎたという思いを持ちました。いろいろと手助けをしてくれた方々に負担をかけてしまったと思っているんです。
いろいろなことがあって、トライアルから離れたいと思ったこともあったのですが、それでも、私をトライアルに導いてくれた人たちのこと、そのトライアルが自分を支えてきてくれたことを考えると、やっぱりその恩に報いたいと思うんです。どうしたら恩返しができるかな、と考えると、それはやっぱりトライアルの世界にとどまって、お前まだやってるんだな、と思ってもらうことじゃないかな、と。みなさんが応援してくれた私は、今でもトライアルが好きなままだと。
くやし涙
Betaのバイクには1994年から乗ってきました。IAに昇格した1997年から、当時の輸入元だったレイズがサポートしてくれるようになって、それ以降もずっとBetaでトライアルをやってきました。その当時、Betaのトライアルは他メーカーから一歩も二歩も進んでいて抜群の性能だったと思います。私も本当にBetaが好きで、すでに惚れ込んでいたんです。1995年当時は、日本で300~400台も売れていたんです。2000年から、トライアル世界選手権の日本大会が茂木(もてぎ)で開催されるようになって、Betaのファクトリーライダーたちを迎えるのも楽しみでした。彼らが存分に戦えるように一生懸命サポートしたんです。
2000年モデルからBetaのバイクがリンクレスのリアサスペンションに変更されたのがひとつの転機になりました。リンクレスの評判が良くなくて、次第に販売数が落ち、ほかに本業があるレイズは徐々にトライアル部門を縮小していきました。そして2005年に、新車を大量に売り残してしまい、レイズは翌年モデルを予約数しか輸入しないということになり、さらにライダーたちのサポートをシーズン途中で解消してしまったんです。
日本ではBetaに乗っていた黒山健一さんも翌年はスコルパに移り、2006年、気がついたらIAクラスのBetaライダーは私だけになっていました。とても悲しかったです。自分が好きなBetaが、日本ではどんどん評価が下がり、嫌われていくんです。Betaはいいバイクだし、いいメーカーだと信じているので、その良さを伝えたいと思っていました。悔しかったですね。
2006年の茂木で、本国のBetaがレイズに代わる日本インポーターを探しているという話を聞き、しばらく考えていました。そして2007年の初めに、イタリアに連絡して、インポーターとしての契約の話がスタートしたんです。
レイズもできるだけマーケットにインパクトを与えない、顧客に迷惑をかけない、という方針で一致していたので業務移管はスムーズにできて、その年の11月に新インポーターとしてスタートすることを発表、2008年モデルからBetaの輸入販売を始めることになりました。
もちろん大変でした。レイズから買い取った部品が10tトラックに満載で、それを当時は自宅兼だった会社に持ってきて、文字通り山になった部品を、さてどうしようか、って!
Betaの2008年モデルは、相変わらず、不評のリンクレスでしたから販売が苦戦するのはわかっていましたが、ちょうど4ストロークが出始めたころで、Betaも4ストを出して、それが少し売れたのが救いでした。
好き、それだけが原動力だった
それまで、少しだけパーツとか中古車とか販売したことはあったんですが、実質、ゼロからのスタートで、とにかくひとつひとつ手探りって感じでした。ただBetaが好き、というだけが頼りで(笑)。でも、運よく、というか、Betaのトライアルバイクは、EVOという現在も続く人気のシリーズにモデルチェンジして人気が回復しました。年間の販売が50台ぐらいまでは、なんとか自分ひとりでがんばってできたんですが、100台ぐらいになるととても追いつかなくなります。そこでサービス、メカニックの人に入ってもらい今も社員としてがんばってくれているんですが、この人も先に話した自転車屋さんに紹介してもらったんです。会社を立ち上げる時にも、本当にお世話になってまして…。トライアルを始めたのも、今の会社になるのも、本当にこの自転車屋さんのご主人がいなかったらなかったことだと思っています。
エンデューロ
Betaが初めてエンデューロバイクを発売したのは、2005年だと思います。Betaのオリジナルの車体に、エンジンは当時のKTMのOHCエンジンを積んだものでした。ちょうど私がインポーターを始める直前だったので、そのバイクについては詳しくないんですけど、その後、トライアルのEVOが出て世界的にBetaの評価が高くなってきたころに、Betaのエンジンで、車体もまったく新しいエンデューロバイクが出たのが2010年でした。
それまでエンデューロもエンデューロバイクもまったく知らなかったんですが、とにかく入れてみなければ話にならないので、まずは2台だけ輸入して、自分たちで乗ってみることになりました。
ただ、他メーカーは4ストも250ccからあるのに、Betaは400ccから上しかないので、これはどうかな、と思いました。今も4ストは350から上で250が無い(笑)。2010年モデルから、レースでは斉藤祐太朗君に乗ってもらって、彼は今もBetaに乗ってくれていますけど、それから徐々にエンデューロに取り組むようになりました。
そこに見た情熱
エンデューロとトライアルは似ているようで、けっこう違っていて、私自身が競技という視点でしかレースをとらえたことがなくて、まずそのこと自体が問題なんだろうか、とは思うんですが、エンデューロは本当にいろいろな楽しみ方ができるスポーツだと思っています。トライアルって、まず初心者と上級者、レベルの差がある人たちが、同じコースで走ることができないんです。エンデューロはそこがまず全然違って、みんなが同じコース、同じ会場に集まって、同じ時間に一緒になって楽しむことができます。それからトライアルバイクって、バイクらしい形をしていなくて、トライアルしかできない。エンデューロバイクはいわゆる一般的にいうところのバイクの形をしていてとっつきやすい。いろんな意味で敷居が低いのがエンデューロの良さのひとつだと思っています。
日本のいろんなレース会場、エンデューロのパドックにいて感じるのは、運営に携わる人たちや、ビギナーも含めて参加している人たちの情熱が強いことです。いいレースを開催してみんなに楽しんでほしいという気持ちも、走りたいという気持ちも、両方を強く感じるんです。
原点は揺るがない
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BIGTANKマガジンは、年6回、偶数月に発行されるエンデューロとラリーの専門誌(印刷されたもの)です。このnoteでは、新号から主要な記…
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