HOW TO RIDE THE DOMESTIC RALLY 「第4回 使い終わったロードブック」
ロードブッグ自体は、ただの記号だが、ライダーが実際に走ることで空間的・時間的な立体性を帯びて再生される。
ラリーとは何か、ロードブックとは何か? コマ図こそがラリーというわけではないが、コマ図というものがあるからこそ、モーターサイクルによるラリーは長く愛されてきたのだろう。
Text : Hisashi Haruki
ラリーという単語には「再び集う」という意味がある、ということはみなさんも聞いたことがあるだろう。群雄割拠する中世ヨーロッパの領主たちが、自分の抱える騎士たちの能力を試した。
一朝事あった時、我が騎士たちは、どれだけの時間でこの城に参集し、戦に備えることができるであろうか。
各地から騎士たちが馳せ参じる。
その迅速さを試す、競う。
それがラリーのはじまりであるという説だ。
だからモンテカルロラリーのようなクラシックイベントでは、ヨーロッパの各地から、まずはスタート地点に集まることからイベントが始まっていた。
競技とはまったく違うが、国際モーターサイクリズム連盟が毎年行っている「FIMラリー」は、何万人ものライダーが集まる。単に集まって盛り上がるだけのイベントだが、ラリーというもののルーツを考えるならば、これこそラリーと呼ぶにふさわしいと言える。
最近の日本では、ラリーというと、ロードブックで走る行為と完全にセットになっているようである。外観としては大体そうであるとも言えるが、コマ図を使うことこそがラリーなのだ、ということはできない。いつか、コマ図という形が無くなって、もっと別の手段に変わっても、ラリーはラリーと呼ばれるはずだ。
だが、ここまでモーターサイクルによるラリーというものが、競技からツーリングに至るまで、多くの人に長く親しまれるようになったのは、ロードブックというものが存在したからだと、ぼくは思っている。
ロードブックというのは、つまり、スタート地点から何キロ進んだところで、右に曲がりなさい、左に行きなさい。あるいは北に進路を変えなさい。2度だけ東寄りに進みなさい。という指示がスタートからゴールまで続いている「指南書」である。
ロードブックを読んで走る人は、ただただ距離計と、ロードブックの記載を見比べるだけで、自分がとっちに進んで行けばよいか理解し、他にはなんの助けも借りることなく、走り続けることができる。誰かに道を教えてもらう必要がなく、ずっと一人で走り続けることができる。自分のペースを乱されるということがない。
ぼくは、これがモーターサイクルという乗り物、ライダーという生き物の性質に実によく合っているのだと思っている。いや確信しているのだ。すなわち、誰にも邪魔されることなく、単独で好きなように走る。つまり自由だ。
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BIGTANKマガジンは、年6回、偶数月に発行されるエンデューロとラリーの専門誌(印刷されたもの)です。このnoteでは、新号から主要な記…
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