シーツお化け
空ろ
聞きかじったことを適当に周りに言いふらして、知ったかぶりだってバレているのかバレていないのか。思想家や哲学者の片鱗を玄孫引きくらいに薄めて、それっぽいことを口走っているだけなのに、「いつも小難しいこと考えている面倒くさそうな奴」と認識されてしまえば、周りの人は「ふーん。」と聞き流してくれれば良い方で、シラケた奴だと離れていくのが相場ってもんだ。
だいたい僕の悪いところは「カッコつけてる」に集約される。カッコつけようとしても勝負にならないような土俵からは退散し、何とか戦えそうで、自分が重きを置いている指標をなるべく見えるように高く取り繕っている。
それが「ちょっと上手いこと言おうとする」文章と、「なんか賢そうに聞こえる」雄弁であり、悪い言い方をすれば、斜に構えて現実を茶化すユーモアと、体当たりで取り組んでいる人に冷や水をぶっかけるマジレスだ。
いつだって僕は現実から逃げている。運動や芸術のように地に足を付けた活動はしないし、今を真剣に生きるために悩んだり考えたりもしない。
瞬発的に言葉を並び立てて、大声をまくし立てて、その場での反論を封じ込めるような、まさに「詭弁」でしかない。岡田斗司夫の提唱する「戦闘思考力」なる概念を援用すると、”トルクの浅い”思考だけでだましだましやり過ごしてきたようなものだ。
ビジネス書や自己啓発本は読まない。ダサいから。
小説や詩歌は分からない。僕が浅いから。
専門書をガッツリ読み込む体力はない。
読書のレパートリーは凡そ学術系新書とちょいちょいに集約される。
要するにシーツお化けみたいな、見た目倒しの空虚な存在だ。
シーツお化けってすごいよな。中身はないのに外から見るとちゃんとあるし、ちゃんとちょっと怖いけど実際はそう大層なものでない感じがする。シーツを剥いだら何があるんだろうか、どうなっているんだろうか。
移ろう
空虚だからこそ気付きやすいのかもしれない。自分には一貫した“芯”がないことに。
今の自分の輪郭を作っているシーツはあるけれど、その中の伽藍洞を満たす空気は常に吹き流しだ。その時々に思っていたこと、考えていたことは、その当時においては紛れもなく自分の思考であるが、現在の自分からすると大体は浅いか痛いかのどちらかだ。もっと短いスパンで考えても自己矛盾の塊で、数秒前に口から言った出まかせを、朝のうちに改めている。懲戒でも食らった方がいいかも?
でも他の人だって大概似たようなものなはず。この前と言ってることが違うこと自体は、非難の対象ではなくて、なぜ考えが変わったのかこそが本題に違いない。
生成変化ってこういうことなのかな?ドゥルーズは難しい。
頑張って背伸びしたから、キリンの首は長くなったんだって思っていた方が、希望に溢れている。
変わっていくことはもちろんいいことだし、背伸びしないと変わる方向性が定まらない。
カッコつけている僕に対して、「背伸びしちゃって…かわいいもんだな」と一段上から見下ろしてくれる「兄」か、「一緒に背伸びしよう」と横に並んでくれる「タメ」か、「カッコいいところ見せたいから頑張って背伸びしちゃうぞ」と思わせてくれる「弟」か、誰でもいいから僕のこのカッコつけを肯定してほしい。
映そう
考えが変わることそのものを肯定する自分にとって、過去を省みるという行いは重要なはずなのに苦手としている。今どう考えているのか、未来に何を行うのか、こそが一大事であって、昔何を考えていたのかなんてどうでもいいと。
でもそれでは変化を見つけにくい。日々色んなことを勉強して、学んで、経験しても、それの何が影響して自分がどう変わったのかがいまいち分からない。現代社会というのは節々で「振り返り」を求めてくる。その手のうざったいイベントがまだある年齢なだけ恵まれているのかもしれないけど。
そんなときのためにも、今の自分の考えを形に残しておこう。
お化けでも、シーツをかぶっているから影が映るはず。