僕と付き合わないでください。
なんて言われたの、彼女初めてだろうな。
僕も初めて言った。あまりにもヘンな告白だ。
恋愛とは
僕は今まで恋愛と無縁だった。多分これからも。
正直言って僕は恋愛の物件としてはそれなりに条件はいい(と信じている)。平均以上効果だろうか。現に成果は得ていないのでその可能性は高い。
ツラツラと自慢と自己弁護を綴っても見苦しいので、「できないじゃない、やらないんだ」と豪語していると、一旦その刀を納めて頂きたい。
と言っておきながら、やっぱりできないんだと思う。やろうと思えない人は立派に「できない」人だ。
恋愛の外側にいるからこそ見えることがあるはずだ。
改めて恋愛とは何か、考えてみよう。
〈あなた〉の
独在論のことを完全には飲み込めていない。でもなんとなくこういうことなんだろうなっていう解釈はある。
僕が僕としてこの世界でどのような人間であるか、いわゆる属性、身体、感情などとは独立に、僕は〈僕〉であり続ける。〈僕〉が僕であるのはたまたまに過ぎないが、その偶然を確信している。
でもあなたが〈あなた〉であることを理解することはできない。他の人がどんな人間であるのかも移り変わり得るけど、今この瞬間の自分にとっては他人は属性の束としてしか認識し得ない。他人が哲学的ゾンビになっても、そのことに気付けない。
だから誰も〈わたし〉のことを愛せないし、誰にとってもわたしは代替可能であり続ける。
でもそんな不可能な愛をなんとか実現しようと、人は試行錯誤をし続ける。
目を借りる
〈わたし〉と世界の関係は眼球と視界の関係に喩えられる。〈わたし〉があって初めて世界が開かれるが、〈わたし〉は世界には含まれない。
わたしの世界の中の他の人は、〈わたし〉でも〈あなた〉でもない。
あなたが〈あなた〉であることを直接知ることはできないなら、間接的に近付いていくしかない。
上の比喩を言葉通りに受け取って、あなたの目から見える視界がどのようなものであるのかを知れば、〈あなた〉を起点とした世界を覗き見ることができるのではないだろうか。
まるでパズルの欠けているピースを、外側の形から推測できるように。
言葉で表せることが全てじゃないから、経験を、時間を、感情を、肉体を、もちろん知性と感性も、共有しよう。
そうすれば、世界からなぜかはみ出して存在している〈わたし〉と〈あなた〉が浮かび上がってくる。
契約
今日日、恋愛は契約である。結婚という更なる契約へと至る前段階としてであったり、恋心や心身の資源の独占契約であったりする。
伴侶を得るとか、身を捧げる投資対象を選ぶとか、遺伝子を残すとか、そういう側面があるんだから、独占したくなるのは当然だろう。
本来恋愛とは結婚のような制度から逸脱する「反発」であったはずなのに、今や制度の中に回収されてしまっていて、マッチングアプリはいよいよ完全に恋愛を属性の中に閉じ込めてくる。〈あなた〉への思いからはかけ離れたところにしか恋人が発生しなくなる未来もそう遠くはないだろう。
そんな乾いた関係しかなくなったとしても、やっぱり人は恋愛をするだろうし、「真の愛」みたいなものへと手探りで進み続けると思う。そうであってほしい。契約を結んでしまえば、それにはいろんなものを共有することも含まれているのだから、その歩みを〈愛〉だと名付けてしまえばいいだけだ。
友達
友達ってなんだ?どこからが友達だ?とか考えるような人間は友達が少ない。信じがたいことに世の中にはポケモンバトルよりも簡単に友情が成立すると思っている人間が多いらしい。さらに全人的な関係である恋愛に対して、友情は部分的な交遊にすぎないとして劣位に置く人間すらいるとのことだ。
僕からしたら契約を口約束としても法的にも結んでいない友人関係こそ、不断の努力と偶然によってのみ結びついている、尊いものだと思うんだが。
男女の友情は
男女の友情が成立するのかという問いに対して、Noを答える人間の論拠は大抵「性欲を抑えられないから」という、フロイトもびっくりの男根至上主義だ。肯定派も大して変わらない。男のちんちんがピクピクさえしなければ男女の友情は成立するらしい。それが理性や社会的な制約、双方の性的魅力の低さによって実現し得ると見るか否かで、このテンプレの問いに対する答えが変わるようだ。全く馬鹿らしい。
さて、僕のこの問いに対する答えは、「男女の友情は成立しにくい」だ。
なんだよ、お前も結局イチモツの側の人間かよ、と思わないで頂きたい。
友情に対する価値観がおおまかに男女で違っていて、その擦り合わせがされないから友人関係を維持する為に必要なことが食い違ってしまう。一方が友情を深めたり確認したり維持したりしようとしてしたことが、裏目に出てしまうせいで、男女で友情は成立しにくい。
男性的友情は対立を維持しながら相手を意識し続ける、いわゆるライバル。どのレベルまで共有していて、どのレベルから対立しているのかは場合によって様々だが、より苛烈に対立していて、それでもなお決別はしないという絶妙なバランスであるほど、尊い友情と見なされる。同じスポーツの選手同士かもしれないし、怪盗と探偵かもしれない。要するにどれだけ違うのかが重要なのが男性的友情だ。
女性的友情は相手との同化を目指す。物事の評価を敢えておおざっぱに「かわいい」という言葉ですることで、違いを覆い隠す。覆い隠さずに済むならなおよい。多くの状況や対象に面したときに、どれだけ、どの程度、同じでいられるかによって、友情の深さが測られる。近年だと男性もこの「女性的友情」によって結びつくことが多いので、呼び方には検討の余地がある。マイルドヤンキーなんてまさに女性的友情だろう。
男女の友情が男性の自制によって成立すると言う人間は、女性的友情を前提としていると思われる。性という違いを無視して、「ウチら友達だよね~」と共感し続けることで初めて維持されると思っているんだろうな。
そこで男性が「男性的友情」を求めて違いを意識させようものなら、女性はたちまち喧嘩だと認識してしまうことだろう。
愛情とどう違うのか
恋愛の前提は〈わたし〉と〈あなた〉の分かり合えなさだ。〈わたし〉が〈あなた〉になることは絶対にありえない。いかに人生を共有しようとも。違いを隠蔽することなしに、向き合い続ける。
そしてその違いをなるべく明らかにしようとする。どのように違うのかを理解することは、〈わたし〉と〈あなた〉の間の隔絶を減らすことに繋がる。
愛情とは男性的友情と女性的友情の融合したものとも言える。
だからこそ恋愛は成立し難く、尊いのだろう。
僕は
僕はかなり議論が好きだ。そして人間の成長可能性が好きだ。前の記事「シーツお化け」ではそのことに対する卑下と讃美を書いている。
裏返すと「精神的に向上心がないものはばかだ」と思っていて、バカは嫌いだ。
人間関係に求めるものは感性と知性を共有する議論と、それによる自他の成長可能性だ。僕にとってコミュニケーションとは情報の交換であって、情緒の交換ではない。非言語的コミュニケーションは言語的コミュニケーションを補助するための目配せのようなものだ。
束縛も
ルールは自分たちを守るためのものであって、ルールを守るために自分たちが行動するのではない。恋人に対する独占契約だって、そうした方がメリットが大きいという合理的な判断によってしか維持されない。自由に反故に出来るんだから、せいぜい「口約束を蔑ろにするような人間でありたくない」という虚栄心に訴えかける以外の効力は持たない。そんなものでは人間の心は縛れないし、縛るべきではない。恋はいつでもハリケーンなんだから。
そもそも自分の欲望を根拠として、他人の行動や内心の自由を制限しようとすることを、烏滸がましいと思っている節がある。だからそれを素朴に解決しようとすると、「恋愛とは価値を提供し合う契約だ」みたいな味気ない解釈になるわけだが。
性交渉もいらないから
恋人とならできて、友達ではできないことを聞くと、まぁ普通に性行為だと言われる。そんな安直な帰結は〈愛〉の成立し難さを甘く見ているから生じるもので、性行為は恋愛の手段にすぎず、その恋愛も〈愛〉の手段でしかない。手段なのだから代替可能で、性行為が無い恋愛も、恋愛に依らない愛もあるだろう。現実的には性行為を根拠としなければ二人の関係性を恋人と確信できないみたいなことは往々にしてありそうだが。
性行為なんてものは非言語的コミュニケーションの最たるもので、お察しの通り僕は童貞だが、そのことになんら価値も劣等感も感じていない。
自分自身の肉体や容姿を自分で評価する軸を持っていない、基準が分からないから、他の人の肉体や容姿も評価できない。極端な健康状態の偏りとか、社会的に特に美しいと評価される姿とかは、まぁだいたい分かるけど、適当に顔を二枚持ってきて、どっちが美しい?と聞かれても、「分からない」としか言えない。強いて言うならと言われたら、原義ルッキズム的に「こんな髪型にするのは、こういうタイプの人間が多い」みたいな推測を挟むしかないだろう。
要するに、肉体を評価できないから、肉体に対してそこまで興奮しない。
当人の貴重な資源を捧げてもらえることや、外では見せない姿を自分だけ見れることといった、文脈ありきの興奮はするかもしれない。
でもそれも、性よりも時間や思考の方が貴重な資源だと思うし、よっぽど独占したときの優越感は高いと思う。
欲しいものを全て手に入れた。
「友達になろう」みたいなことを言ったのは小学校一年生の時以来だ。友達というのはなんとなくなっているもので、わざわざ言うようなものではないと思う。でも言っておかなければいけないと思ったんだ。
僕の背伸びと議論に付き合ってくれる人が、本当に希少なその人が女性だったから。意見が食い違うことも、分からないということも恐れないし、どうせ分からないとか、人それぞれだとか言って放棄することもない。そういう人は大抵男性で、生涯の付き合いにできたらいいな、できそうだな、と思うような関係を築けた相手も何人かいる。有難い。文字通り、有難い。
しかし異性だとそうはいかない。彼女が結ぶ恋人「契約」の相手や内容次第で、断絶を強いられてしまうかもしれない。本人は友情を恋愛の劣位には置かないだろうし、"発展”が自然の摂理だとも思っていないだろうけど、彼女の彼氏は分からない。どういう基準で彼氏を決めるのかも分からない。男女の友情が恋愛(というより性愛)の前段階や派生に過ぎないと、短絡的に結論付けるようなバカ男によって、剪定される可能性は否定できない。そしてそれは耐え難い苦痛だ。
その未来を避けるために、そして現在を楽しむために僕が編み出した方法が「告白する前にフる」、すなわち恋愛に"進む"意志はないことを誓約するというものだ。我ながら前代未聞のヘンな告白だ。でもそうすれば彼女の彼氏が僕を余計な枝葉と見て剪定しようとしてきて、それに彼女が抵抗してくれる時に、切れる手札が増える。「あいつとはそういうのじゃないから」を明確に根拠を持って言える。勿論、敢えてその手札を伏せることもあるかもしれないが、それは彼女の自由だ。
逆にそういうフロイトみたいな認識を持っているような人間は恋愛のことをセックス契約としか思っていなさそうだから、それはそれで都合がいいかもしれない。じゃあそれ以外の全部をもらいますよ、恋心なんていうよくわからないものはいらないので。と。
そして現在にも利益がある。ラインでも対面でも、男が女に一対一で話しかけたり遊びに誘ったりすることには、「他意」があると思われる可能性がある。たまたま予定が合うのが12/25だっただけでも、「クリスマス」という意味が付与されてしまうように。いちいち「これはデートではない」と断りを入れずに、博物館や展覧会に誘えた方が、コミュニケーションのコストが大幅にカットできる。
残念ながら、今の環境では大人数で行動することでこれは恋愛じゃないですよアピールを行うことが難しいのだ。それができそうな行き先は遊園地などに限られてしまい、僕はそういった施設に重きを置いていないから。
でも
いよいよ僕は恋愛ができないのかもしれない。
僕が他人に求める要素の全ては、恋愛じゃなくても実現することだと分かったから。
普通はそのような深い関係が異性との間に芽生えたら「恋愛」と名付けられる。というか、「恋人」でもなければ異性と深い交流を行えないものとされている。だから僕も一瞬は彼女の「彼氏」の座を目指そうかとも考えたが、それは違うと思い直した。別に欲しいのは彼女の経験と感性と知性だけであって、生活や身体や時間や人生ではない。そこまで踏み込みたくないし、覚悟もないし責任も取れない。普通に勝率低そうだし、負けを引いたら断絶の危機が迫るので本末転倒だ。
今回、僕が一番重視している欲望を満たしてくれる異性への思いや関係を「恋」と分離することで、維持する方法を発明してしまったんだ。
じゃあ僕はどんな欲望になら「恋」と名付けて真摯に向き合い、リスクを承知で踏み込めるのだろうか。
ワンチャンス
やっぱり彼女とのワンチャンスを狙いに行くべきかもしれない。
勝率が低そうというのは、彼女が「恋少なき女」だから。悪く言うとこじらせているから。僕も盛大にこじらせている側だからこそ、少なからず共鳴する部分があった。
彼女が他人に対してどんな欲望を持っているのかは計り知れない。その欲望を満たせる相手を見つけてくれることを祈るばかりだ。それと同時に、僕がその器であったらどれほどいいことかと切に思っている。
普通はこの願いを恋や片思いと呼ぶのだろうけど、僕ほどのロマンチストにかかれば恋じゃない名前を付けたくなってしまうのは当然で、それにちょうどいいのが「友愛」だったってわけ。
「恋愛」としか呼べない関係を見つけることができなかったら、彼女に詫びて契約を反故にするかもしれない。この契約を説明した時みたいに、数時間プレゼンをしたうえで。この契約や、それを持ちかける僕もヘンだけど、それを理解して承諾する彼女もなかなかヘンだ。ヘンな奴同士、お似合いだと思ってくれたりしないかな。
「○○歳になってお互い独身だったら結婚しよう」みたいな、ヘンどころか流石にキモい告白を、口が滑って言ってしまいそうだ。
今は恋愛をする気にはなれないというだけで、厄介な枷をつけてしまったかもしれない。「恋愛」を見つける自信もないくせに。僕は弱いな。
無かったわ
いや、彼氏作っとるやないかーい。
彼氏が出来た時に備えての契約だったから想定内ではあるけど、早くない?