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「欲しい」を欲っする哀れな中年

 欲しいものなんて無いのにAmazonのセールを見たり、ガジェット系youtuberを見てしまうことがある。そこに違和感を感じ、うっかり真面目に考えてみると自分には欲しいモノなんて無い事に気づく。小学生の頃なんてゲームやおもちゃが死ぬほど欲しかった。お小遣いを貯めるために、掃除を手伝ったり、祖父母の家に不自然なほど通ったりしたものである。あの頃の純粋な「欲しい」という欲求はどこに行ってしまったのか。もちろん今でも多少の欲求はあるが、何かが違う。むしろ欲しいという欲求を渇望しているとでも言おうか。そうだ順番が狂ってしまったのだ。昔は対象が存在し、それから「欲しい」があったが今は「欲しい」という感情が先行して、その後に欲しいモノを探している。

 何か一つのことに打ち込み、金と時間を使う人間が羨ましく思える。僕は熱しやすく冷めやすいを体現した人間であり、物事が長く続かない。おそらくこれが最大のコンプレックスであろう。こんな文章を書いている時点で、僕もまた「欲しい」欲っする哀れな人間なのである。くそ、、、。あぁ父よ母よ、文章を書くと自虐的になるのはなぜでしょうか。せめて今までの文章をポジティブに振り返りましょう。

私はモノではなく「欲しい」という概念を欲する高次の人間でございます。モノを欲っする彼等とは一線を画する神、あるいは高尚を体現した尊い男なのです。とでも言ましょうか。


 変な文体に飽きた上に、「欲」という漢字のカタチが非常に奇妙に思えてきたところで閉幕。


最近読んだ本

あのこは貴族 山内マリコ
 昔は小説大好きだったが、最近は実用書や専門書を読む事が多かった。なんてつまらない情緒の無い人間だろうと自己肯定感が下がり切ったところで、ふと小説を手に取るとあぁ面白い。小学生のときダレンシャンを読んでいた気持ちが蘇る。まだ感受性達が生きながらえていたことに祝福。




よい曲を作り続けます