見出し画像

「ドイツで英語を使うこと」そして「ドイツ語で話すこと」

みなさんこんにちは。アイヒヘルヒェンです。
昨年秋からドイツのベルリン自由大学に10か月間留学中。只今4か月目を迎えております。

ということで、今回のトピックは「ドイツで英語を使うこと」そして「ドイツ語で話すこと」についてです。
先の投稿で述べたとおり、初対面の人に英語で話しかけられることは、自分にとって、アジア人という外見で自分がカテゴライズされ、ドイツ語が通じない外国人Alienとして、私という一人の人間としての在り方を否定して暴力的に括られたという事実を意味する以外の何物でもありませんでした。そのことに対する自分の抵抗感は今も変わっていない。けれど、同じ「外国人」として扱われるにも(それは事実だから仕方がない)、心地よい扱われ方とそうでないものがあると学びました。

たとえば。友人(日本の大学時代からの友人)と赤の市庁舎近くのドイツ料理レストランに行った時のこと、席に案内された後、店員さんからメニューはドイツ語と英語どちらで見たいかを(ドイツ語で)聞かれました。そんなことを尋ねられたことはなかったので、最初はびっくりして一瞬理解できなかったのですが、やや照れながら「ドイツ語で!」とお願いし、その後のサービスも全てドイツ語で対応してもらいました。自分が外国人であることは明白でも、自分にドイツ語が分かる可能性を認めてくれた、というその事実がなんだかとても嬉しかった出来事でした。

また先日は、友人の友人のドイツ人の誕生日パーティーに呼んでもらいました(ちなメインディッシュは寿司で面白かった)。パーティーにいるのは大半がドイツ人でしたが、私の友人と主催者は日常会話を英語で行っていたため、英語とドイツ語が混ぜ混ぜの空間でした。友人の同伴で行った私も初めは英語で話していましたが、こちらからドイツ語で話しかければ、全員漏れなく完全にドイツ語で返してくれる。面白いのは、一般に若者の方が英語が話せるドイツ社会において、英語が話せる若者の方が、外国人である私の拙いドイツ語にドイツ語で向き合ってくれることが多いという事実。ドイツ語で何と言えばいいのか分からなければ、そこだけ英語に置き換えればドイツ語のフレーズを教えてくれるし、英語の方が適している状況であれば英語に切り替える。素晴らしくフレキシブルで知的な空間でした。

その度に感じるのは、選択肢があることって、自由だな、と。そして、それはとても温かいことなんだな、と。どの言語で話すのかという選択肢が与えられて自分で選べたという事実は、それだけで自由を感じられるし、そして自分のドイツ語が間違っていても、理解できない瞬間があっても、焦らないでいいんだ、粘り強く意思疎通を図れるように挑戦すればいいんだ、という自信と落ち着きすら与えてくれるものだと分かりました。

今回はここまで。
読んでくださりありがとうございました!またね!Tschüss!

いいなと思ったら応援しよう!