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2024/06/04 朝井まかて著『ボタニカ』

牧野富太郎という人

494ページ、かなり分厚い本だが、家事をサボって二日で読んだ。面白かった。ネット上には、さまざまな感想が書かれている。

テレビドラマの影響か、好人物だと勘違いしていた人が多いようだ。

私は、牧野富太郎というと思い出すことがある。小学校の教科書に載っていた尾瀬での出来事だ。

貴重な植物を次から次へと採集して馬に積み込んでいた植物学者の牧野富太郎に、「研究するのと同時に植物を守っていく手立ても考えてほしい」としかりつけた初代の長蔵のエピソードが書かれている。

自分が小学生の時に読んだわけではない。若い頃、ずっと学習塾でアルバイト講師をしていた。牧野富太郎が著名な植物学者だということはもちろん知っていた。なので、意外であった。

NHKでドラマ化されると知った時は、このエピソードも紹介されるのだろうかと、まず思った。

エピソードの真相はさておき、奔放な人物であろうことは想像できたので、『ボタニカ』を読んでも驚くことはなかった。

亡くなったのは昭和32年、昭和の中頃だ。若い人には遠い過去と感じるかもしれないが、私が産まれた時にはまだ生きていたわけで、さほど昔とは思えない。しかし、牧野博士が生きた時代と今では、価値観がかなり違う。

正妻を土佐に残し、16歳の女性を妾にして子を産ませたということを非難する人がいる。私もさすがにその時代は生きていないが、今の価値観で考えては、ものの見方を間違えるだろう。

二人の女性は確かに並々ならぬ苦労をしたであろう。しかし、牧野富太郎という人は、それでもなお支え続けたいと思える人物であったのだろう。わがままを言われ、迷惑をかけられてもなお、なぜか支えたくなる。それがまさに天才というものなのかもしれない。

この感想を書こうと調べていたら、なんと、この教科書が今でも購入できることがわかった。早速、amazonでポッチとした。

話が逸れるが、本の表紙に書かれている田中正造もなつかしい。おそらく、アルバイトしてた学習塾に通ってきていた子供たちの学校では光村の国語教科書を使っていたのだろう。

当時は、国語は光村、算数は東京書籍の教科書を使う学校が多かった。ボタニカから、まさか懐かしい思い出が蘇るとは・・・

話は戻るが、牧野博士ひとりで偉業を成し遂げたわけではない。周りの人たちは牧野博士以上に素晴らしい人たちであったことを忘れないようにしたい。

谷中、天王寺にあると牧野博士の墓
ボタニカには、ここに刻まれている「結網学人」に関する、富太郎10歳の頃のエピソードが書かれている
練馬区大泉学園の牧野記念庭園にて
スエコザサに抱かれた牧野博士


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