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スポーツと感情とオリンピックと。

連日、オリンピックの色々なことが話題になっているが、面倒臭い話題に付き合ってくれる人がいないなら、ブログに書けばいいじゃない、ということで就職とは全く関係ないオリンピックのことを書く。

柔道選手の泣いた姿が議論をよんだ。号泣はみっともないとか、相手へのリスペクトがないとか、武士道に反するとか。
そもそも、これは「論じる」べき話題なんだろうか。こうして今私が話題に出すことも、もしかしたら彼女の気持ちを慮れない行為なのかもしれないけど、、、スポーツ選手が勝敗に感情的になることがあっても別に不思議ではない。人間だもの。感情が爆発してしまったのだから、生放送は仕方ないにしても、何度も何度もその姿を繰り返しマスメディアが流してクローズアップするから、議論になったのではないだろうか。
そんなに号泣、号泣いう必要あったの?と思っている。

そして柔道は「武道」なんだからという言葉。わかる、私も武道における礼節を重んじる武士道精神のようなものは好きだ。よく「JUDO」か「柔道」かなどといわれたりするけど、感情をあまり表に出さず静かに勝ち続けた大野選手などとても好きだった。Cool JAPANの象徴ともいうべきSAMURAIのような姿、かっこいい。

その一方で、柔道も「スポーツ」で勝敗を決めることだという思いもある。オリンピックの大舞台、誰もが勝ちたいと思って挑み、負けてしまったことで感情を表に出すことは、そんなに悪いことだろうか。負けて悔しい、それは人間として間違った感情なはずがない。

先日会った友人が「負け方の美学」という話をしてきた。「負けた時の態度は、その人の人間性を感じる」とかなんとか。知ってはいたが、相変わらず面倒くさいことを言うやつだな、と思った。

確かに、自分の悔しさを押し殺し、相手をたたえたり、感謝の言葉を述べられる人は、人間力が高い人だな、と思う。
先日、宮城大会決勝で敗れた時の仙台育英の監督の記事を読んだ。

「あなた達を支えてくれて、育ててくれた人に対して、人生の今日は大切なタイミングだから。優勝した時とか勝った時じゃない。今日負けた時に連絡することが大事! 勝った時に勝ちましたという報告よりも、負けた時に感謝をちゃんと伝えられる。それは、絶対に欠かしてはいけない。

それは、ここで学んだことだし、これからの人生でとても大切にして欲しいことだから、今日のこのあとの時間を本当に有意義に使ってほしい。今日しか学べないことがあるから、明日になれば薄れちゃうことがあるから。今日ひとりになって、もしかしたらもう1回泣くかもしれない。夜になったら、本当に終わったんだなと、実感が湧いてくると思うよ」

そして、須江監督は「でも、その時にしか一生湧き出てこない気持ちや考えとかがあるから、今日という日を逃したらいけない」と強調。「それが、敗者復活の第一歩だから、今日という日を無駄にしない。今日が大事なんだよ」と「今日」というワードを何度も繰り返し、現在を一生懸命に生きることの大切さを伝えた。

THE DIGEST編集部

「グッドルーザーたれ」というのが須藤監督の教えだという。とても知性を感じる言葉を紡ぐなぁと思い調べたら「青春ってすごく密」と話された監督だと知る。
名言は色々あれど、人生の分岐を教えてくれる指導者に出会えることってなかなかない。仙台育英の選手たちは、須藤監督との出会いは何物にも代えがたい財産だろうなと思う。

その一方で、清々しく負けられず、悔しい感情を出すスポーツ選手たちも、勝敗に拘る選手らしい姿として、私は嫌いではない。柔道で小川直也選手が銀メダルだったとき、ふてくされ記者会見と叩かれたが、幼心ながらあのふてくされも好きだった。ニコニコするだけがスポーツ選手ではない。相手を侮辱する行為や不快にする行為は「勝ち負け」ではないので、論外だが、勝ちに拘るからこそ抑えきれない悔しさがある、それもスポーツの醍醐味ではなかろうか。

近年、甲子園でもガッツポーズが否定される。学生において「相手への配慮に欠く」行為だからだそうな。ガッツポーズは、そんなに「失礼な行為」だったろうか。
何が何でも塁に出たい、勝ちたい、そのために日々努力を重ね「勝つため」に都道府県の代表となり、頂点を目指す中で、感情を出すことは本当に「学生らしくない行為」に見えるかね。
学生として指導すべきは、「相手への配慮に欠く」ような「失礼な行為」であって、ガッツポーズを禁止することではないと思いますがね。
オールスターなのに「〇〇倒せ!」って特定の球団名出してる方がよっぽど礼節に欠く行為だと思いますけど…閑話休題。

とあるゴルフの選手の方が、件の柔道の選手の泣いている姿を見て、オリンピックの舞台の偉大さを改めて認識し、自分が出場していることに感謝の気持ちを持って試合に向き合いたいと思ったという記事を見た。

当たり前の事実だが、論じている我々のほとんどが「オリンピックの舞台」を経験したことがない。その重圧や舞台の大きさ、想像でしかありえないことに対して「〇〇すべきではない」という議論は無駄ではなかろうか。
そして、人の感情がむき出しになっている姿を、何度も報道することに意味があるだろうか。

また甲子園の話に戻ってしまうが、いつからかスポーツは感動とセットで鵜売られることが多くなった。
正直、作られなくても感動が生まれるのがスポーツの良さでもある。ただ、感動は金になる。選手、監督、控えの選手、マネージャー、父母、兄弟、つつけばいくらでもストーリーはあっていくらでも感動できるのが「スポーツ」であり、それが高校生ともなればなおさらである。

24時間テレビの是非が問われてるのも、「感動の押し売り」が理由の一因だと思うが、人の感情やストーリーを金に換えようとする力が、不必要な議論を生み、被害に繋がるのではないかと思う。

何年も何年もオリンピックを見続けていても、飽きることがない。それはやはり様々な人たちの勝敗にかける「想い」が伝わるからではないかと思う。勝っても負けても、記憶には残る。
はじける笑顔も、悔しそうな顔も、茫然とした姿も、もちろん紳士たる姿も。スポーツ選手は、みんなルールの中で戦っている。その姿に議論を投げかけるなんて本当に野暮だよ、と言いたかったのでした。

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