七つのロータス 第34章 ラジII

 ラジは帰宅すると出迎えた家宰に、オランエの様子を尋ねた。
「一日中、庭の見える部屋で、ただ座っておいででした」
「奴は何を食った?」
「朝、お粥をこんな小さな椀に一杯だけ。私どもがいろいろとおもてなし致そうとしましても、修行中の身だからとおっしゃって何もお受けにならぬのです。やっとのことで一杯の檸檬水と、小さな瓜を召しあがっていただきました。あれでは、お体を壊してしまわぬか心配です」
年老いた家宰は、皺だらけの顔にさらに皺をよせながら言った。
「心配はいらないだろう。奴は何年も、そんなものばっかり食べて生きてきたんだから」
ラジはそこで言葉を切り、力をこめて先を続けた。
「だが娑婆に出てきてまで、修行を続けさせるつもりはないんだ。今晩は豪勢な飯を用意しろ。いっそ宴会のつもりで準備を整えておいてくれ」
家宰は深々と頭を下げて、引き下がった。

 瞑想者の森でするように、一日をただ座って心を穏やかに保つことに費やした。だが森でのような平安は、とうとう得られなかった。屋敷の中から、塀の外から、雑多な物音が聞こえて思索を妨げる。人々の声、生活の物音。あまりにも下世話な世界が、すぐ間際まで迫って、オランエを苛むのだった。思うように意識を解放できない苛立ちが、さらに心をかき乱す。悪循環にはすぐ気づいたが、どうすることもできない。ただ気持ちが乱れてゆくのに抗って、もがくばかりである。丸一日見つめつづけていた庭が、いつしか茜色の光に染められていた。
 オランエは溜息をついた。こんな場所で瞑想をしようとしてもうまくいかない。それは最初からわかっていることではないか。ソレナラバ、ナゼオマエハココニイルノカ。もっともな疑問だ。自然と胸に浮かんだ言葉に、さらに応えるような言葉が連なってくる。やはり帰ろう。そう思うと、今日はじめて少しだけ 気分が軽くなった。チャクリヤナ師の破門が解けていないのが気がかりだが、なにもできずに帰ってきた弟子を追い返しはすまい。たとえそんなことがあったとしても、その時には別の師に教えを乞うまでだ。
 オランエはまた溜息をついた。何故こんな殺伐とした気分になっているのだろう。なぜこんなささくれだった気持ちになるのだろう。あらゆる感情が流れ落ちたあとに、悲しみが残った。庭を覆う光は薄れ、周囲は紺色に塗り変えられている。

 相手が素足だったせいか、空気と一体になれなかったせいか、声をかけられるまでラジには気づかなかった。
「パーラの践祚が決まった」
オランエは勢いよく振り向いた。ラジが告げた内容よりも、突然話かけられたことに驚いた。
「そうか」
動揺が収まるまで待ってから、それだけ答える。
「気にならないのか」
ラジが問う。どこか面白がっているような響きは、思い過ごしだろうか。
「気にしても何もできない」
「ならお前はなんで、森から出てきたんだ」
ラジは確かに心配げに見える。それでもオランエは何か気に障るものを感じる。
「だからもう森に帰ろうかと思っている」
オランエは素直な気持ちを打ち明けた。別に本心を晒したところで、不都合はなにもない筈だ。
「そのことについてはゆっくり話そう。何もしてやれないと、決まったものでもないかも知れんぜ」

 ラジに続いて広間に入ると、既に食事の仕度が整えられていた。ティビュブロスも待っていて、立ち上がってオランエを迎えた。だがオランエは敷物の上に座り、食べ物の匂いを嗅ぐと、たちまち気分が悪くなった。
「すみません。出家して以来、夕食を摂る習慣がないもので。ちょっと食べられそうにありません」
オランエはティビュブロスに詫びてさがろうとしたが、ラジが引きとめる。
「そう言うな。せっかく歓迎の宴を用意したんだ。軽く口をつけるくらいするもんだ」
ラジは上衣をゆるめ片膝を立てすっかりくつろいだ姿勢で、早くも良く焼けた雉肉を手に取って噛り付いた。女たちが三人それぞれの前に、酒瓶と杯を用意する。
「お望みなら、隣につけて酌をさせるぞ」
さっそく自分の杯に酒を注ぎながら、ラジが口の端で笑って見せる。
「いや、結構だ」
オランエは不快だったし、その上困惑していた。縋るような想いでティビュブロスを見ても、若き日の師は散漫に食べ物を手に取っているばかりで、オランエの様子に気がつく素振りは見せようともしない。
 オランエはやむを得ず、目の前の料理の中から汁物の椀を手に取った。魚の身と野菜。オランエは椀の具を確かめ、椀を顔に引き寄せる。出汁は鶏だ。長年、生臭を遠ざけてきた身に、食欲を起させるものではない。
「どうした、早く食えよ」
脂の染み出すような炙り肉を手にしたラジが、少しばかり険のある声で言った。オランエは曖昧な返事をして、椀を啜った。その間にもラジは次から次へと、食べ物を詰め込んでいる。並べられた料理を睨みつけるようにして、一時も手と口を休めることがない。パンを引き裂いて口に運び、流し込むように酒を飲む。丸焼きの雀に煮こんだ玉葱。塩竃焼きにした大きな鱸。それらがラジの腹へ収まってゆくさま、寛げた服から剥き出しになった胸に汗が伝い落ちるさま、ラジの肩や背から湯気が立ち上るさまを、オランエは呆気にとられたまま眺めた。
 椀のつゆ物は確かに旨かったし、施された物を食べるのであれば、肉でも魚でも戒律には反しない。それでもオランエはこれら遠ざけるべきとされている食べ物を、これ以上口にしたくはなかった。
「どこへ行く」
オランエがいよいよ我慢しきれなくなって立ち上がると、ラジがしゃぶっていた鳩の骨を口から離して咎めた。
「もう休むよ。満腹なんだ」
「坐れ」
ラジは鳩の骨をもてあそびながら、強い口調で命じた。オランエは別に気圧されたわけでもなかったが、素直に従った。
「食え」
ラジは強い口調のままオランエを睨みつけると、鹿の腰肉とおぼしき巨大な肉の塊をオランエに突きつけた。
「もう食べられない」
冷ややかに言葉を返しても、ラジは強硬だった。肉は下ろしたが、今度はオランエの前に並ぶ料理を指差す。
「いいから食え。妹を助けたいのだろう」
「何の関係がある?」
オランエは相手の不可解な言葉に、半ば呆れて言った。
「さっき言ったとおり、パーラの即位は正式に決まったんだ。お前が力になりたいと思っても、もう近づくのも容易じゃない。わかるな。たとえお前が帝の兄であっても、だ。いろいろな思惑を持った廷臣たちが、十重二十重にお前とパーラの間に立ちはだかるはずだ」
オランエは頷いた。ここまでは、筋が通っている。
「お前は宮廷の一角に足場を築くという大仕事をこなさなくちゃならん。飯も食わずにそんなことができるか!」
オランエは何も言わず、ただ相手の視線を真っ向から受けとめていた。
「親父に泣きついておきながら、お前自身がそんな情けないことでどうするんだ。俺と親父に力を貸して欲しいのなら、食え。男のクセに食の細い奴なんてものを、俺は信用しないんだ」
 暫く睨み合ったあげく、オランエは無言でパンを引き裂くと、椀の汁に浸してから口に運んだ。ラジはひとつ頷いて、自分もまた食べ物を手に取る。大きなパンの塊が、枇杷が、酢漬けの胡瓜が次々と消えてゆく。オランエはラジの姿から目をそらし、自分の前に置かれた食べ物だけを凝視した。本来恵みであるべき食べ物にほとんど憎悪を抱きながら、またパンを手に取り、苛立ちのままに引き裂く。骨のついたままの鳩の胸肉を、怒りをもって奥歯で噛み砕く。一方ラジもゆで卵を一息に口に収めたかと思うと、葉のついた蕪と蓮の実を次々に平らげた。

 会話と言えるような行為が始まるのは、さすがのラジも満腹して、食べ物よりも杯を口に運ぶ方が多くなってからだった。その頃にはティビュブロスも酔いが回っていたし、オランエは少しずつとはいえ、無理やり詰めこんだ食べ物のせいで気分が悪くなっていた。

 オランエは寝床の中で、憤怒と苛立ちの大波に抗う事もできずにいた。何一つ事態は好転していかない。今日あった出来事と言えば、無理やり飯を食わされた、というだけだ。その後パーラを皇帝に推挙した会議の様子や、祭儀の途中で神官長が神懸りになった話などは聞いたが、それがどれほど自分の役に立つのかもわからない。オランエは長い時間不快な感覚に耐えながら輾転反側した挙句、真夜中過ぎに食べた物を全て吐き戻した。

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