世界史 その7 謎の多いインダス文明
ここまで取り上げてきたメソポタミア、エジプト、中国とならんで4大文明と称されることもあるのが古代インドのインダス文明だ。4大文明というかつては誰でも知っていたのに、今ではかなり古臭くなってしまった概念については、できれば独立した項でやや批判的に取り上げてみたいと思っている。
さて他3つの古代文明と比べるとインダス文明はまだまだ未解明の部分が大きいそうだ。そもそもインダス文明で使用されていたインダス文字が未解読で、読むことができないというのも大きいが、それに加えて発見されてから日が浅いという要素も無視できない。ハラッパーの遺跡が発見されたのが1921年、モヘンジョ・ダロの遺跡が発見されたのが翌1922年、発掘が開始され、インダス文明の存在が広く世界に知られるようになったのが1924年で、なんとまだ100年経っていないのだ。またインドとパキスタンの研究環境も、インダス文明についての知見が広がらない原因となっている部分もあるようだ。
さてそのインダス文明だけれども、その名の通りインダス川流域で発達した文明と考えると完全に間違う。有名なハラッパーとモヘンジョ・ダロこそインダス川流域にあるが、遺跡は他にもインダス川とは別のガッカル・ハークラー川流域、インダス川河口から西へ延びるマクラーン海岸、インダス川河口からは南東に広がるグジャラート州と、インドとパキスタンに跨がり一部はアフガニスタンにまで及ぶ広大な地域にインダス文明の遺跡は広がっている。メソポタミア、エジプト、黄河の各古代文明の範囲よりも遥かに広大だ。
この広大な領域に広がる遺跡が同じインダス文明に属すとされているのはそれだけの共通性があるからで、それはまず第一にインダス文字とその文字を使った印象の存在があり、また規格化されたような煉瓦や錘の存在がある。
未解読のインダス文字は主に3~4cmの四角形をした印象に使用されている。インダス印象は動物などのシンボルと文字が使われたハンコで、商取引に使われたと推測されている。メソポタミアやペルシア湾岸地域からも出土しており、インダス文明とメソポタミア文明のあいだに交易があったことがわかる。
インダス文明では焼成煉瓦や日干し煉瓦が建材として多用されているが、その形は1:2:4の比率で統一され、結果として都市の道路幅なども規格化されたようになっているのだという。また錘(おもり)も同じように統一された規格のものが使われている。
イラン高原とインダス平原の境にあるメヘルガル遺跡では、紀元前6000年頃までには穀物の栽培と家畜の飼育が始まっており、紀元前4000年紀には銅器やロクロが使用されていた。
ハラッパーの遺跡でも本格的な都市文明が始まるより遥かに前になる紀元前3500年頃のインダス文字に似た文字が刻まれた土器が発掘されており、この頃からインダス文明の時代までの文化の連続性が推測できる。
本格的な都市文明の時代は紀元前2300年頃から紀元前1800年頃となり、その後200~300年かけて衰退していく。その後この地域に侵入したアーリア人が都市生活に馴染まない人々だったこともあり、インダス文明衰退後1000年に渡りインドには都市らしい都市が登場しないことになる。
以上が大まかなこの地域の歴史で、メソポタミアやエジプトと違って文字記録がないため、どの都市が有力になってなんと言う名前の支配者がいて、というようなことは全くわからない。そもそもそのような闘争があったのかということも含めてわからない。
大規模な都市ははっきりとした都市計画の元に造られている。あまり都市計画の跡が見られないシュメールの都市とは対照的だ。加えて規格化された煉瓦、統一された度量衡、何より大規模な都市を支えるだけの農業生産力。それらには富や労働力を集約する権力者の存在が不可欠に思える。でありながらインダス文明の権力構造は全く不明となっている。権力者を顕彰する碑文やモニュメントの類いが全く発見されていない。庶民の家屋と推測される建物にも立派なレンガが使われているのに、宮殿のような建物は見つからない。加えて城壁はあれど、武器の類いもほとんど発見されていない。軍事力と警察力が未分化の時代に非武装というのはあり得ないように思うけど、それらの痕跡が異常に少ない。軍事においても行政においても、インダス文明の権力がどうなっていたのかは謎である。
インダス文明と言えば、まずハラッパーとモヘンジョ・ダロという2つの遺跡が有名だ。インダス文明はハラッパーとモヘンジョ・ダロの二つの首都を持つ大帝国だったという推測も力をもった時期もあったが、現在はほぼ否定されている。軍事力の痕跡が全く見られない上、2大都市に匹敵する大都市が複数見つかったからだ。
現在ではハラッパーとモヘンジョ・ダロの中間にあるガンウェリワーラー、ガッカル川に近いラーキーガリー、インドのグジャラート州にあるドーラヴィーラーの3都市を加えて5つが当時の大都市だったと考えられている。更にモヘンジョ・ダロから80kmの距離にるラーカンジョダロも5大都市を上回る規模があった可能性が出てきている。
インダス文明の時代にはこの地域はもっと水に恵まれており、ガッカル・ハークラー川も大河であったとする説もあるが、遺跡の分析からインダス文明の遺跡は元々乾燥地向けの構造をしており、数多い水に関する遺構も水が豊かであったというよりは、貴重な水を無駄なく利用するためのものだという反論がされている。
このような環境でどのような農業が行われていたのだろうか。植物の痕跡の分析ではインダス川下流、現代のパキスタン・シンド州にあたる地域では冬作物が75%でオオムギとコムギだけで50%を占める。インダス川上流、現代のパキスタン・パンジャーブ州にあたる地域では冬作物が60%、ただしコムギ・オオムギは25%程度で、レンズ豆やエンドウなど豆類の栽培が多かった。現在のインド・グジャラート州にあたる地域では夏作物が60%でコムギとオオムギは10%程度、イネ・キビ・アワなどで40%を占めたとのこと。インダス川流域ではインダス川の水に依存しているけれど、インダス川から遠く離れたグジャラート州では、むしろ雨期の雨水に依存しており。栽培される作物にも大きな地域差があったようだ。
石材や鉱物の分析からはインダス文明圏全域を覆う交易ネットワークが存在した可能性が見えてくる。今回大いに参考にした長田俊樹氏の著作では、ロバや牛車を使って遊牧と交易を生業とする人々が各地域を結ぶネットワークがインダス文明の本質だと論じている。
またグジャラート州の海岸に近い遺跡では、現代のバーレーンとオマーンを中継地として、メソポタミア地域との海上交易が行われていた。グジャラート州では貝や貴石から装身具を製作する工房と見られる遺跡も発見されており、輸出用の商品として製作されていたようだ。他に貴金属や希少な鉱物も輸出されていた。
インダス文明の衰退あるいは滅亡に関しては、様々な説が唱えられながら、誰もが納得するような答えはまだ無い。未だに不明のままである。
かつては中央アジアからインドに進出したアーリア人に滅ぼされたと考えられていたが、考古学的な年代が詳しくわかるにつれて、都市文明の衰退はアーリア人の侵入前であることがはっきりしてきた。
続いて有力になった気候変動についても、広大なインダス文明圏全体で都市文明を維持できなくなる気候変動とはどういったものか、それまでの都市を放棄するにしても新たな場所に都市を築くことをしなかったのは何故か、と疑問は多い。
ともかく紀元前1800年頃からインダス文明は衰退していく。数百年かけて衰退した後には解読できない文字を刻んだ印象と、権力構造の分からない遺跡が残った。文明についての詳細は未だ謎に包まれており、わかっていることの方が少ないほど。それでもインド、パキスタン両国で多くの研究者が発掘と研究を続けている。国同士が敵対しているため相互に交流できない両国の研究者に代わり、欧米や日本の研究者が両国にまたがる研究を行っている。謎が多いのはインダス文明研究の歴史が浅いためもあるので、これから研究の余地の大きい分野でもあるのだろう。研究者の努力が実を結び、多くの謎が解き明かされることを願ってやまない。
参考文献
インダス文明の謎 古代文明神話を見直す
長田俊樹 京都大学学術出版会 2013
世界の歴史 3 古代インドの文明と社会
山崎元一 中央公論新社 1997