ギリシア文明前史 ギリシア人登場前のギリシア
南部メソポタミアに生まれた文明は周囲に広がっていき、独自に生まれたもしくは西アジアから伝播した文明の種子を独自に育んだエジプト文明とも合流して、ヨーロッパにも伝播しようとしている。
この項では本格的にエーゲ文明について語る前に、世界史その12と重複することは承知で、新石器時代以降のギリシャについて軽く触れておくことにする。
ペロポネソス半島の北東部にあるフランクティ洞窟は、最終氷期から農耕社会まで連続した生活の痕跡が残る貴重な遺跡だ。更にそれより遥か前にもネアンデルタール人がこの洞窟に暮らしていた可能性を示す石器も発見されている。
遅くとも最終氷期にあたる2万5千年前には、確実にこの洞窟に人が暮らしていた。氷河期の終了とともに、人々は狩猟と平行して多くの植物を食用にするようになる。紀元前7300年頃には野生の麦類の花粉が確認されている。紀元前7000年頃の層では黒曜石とマグロの骨が出土している。黒曜石は120km離れたミロス島がエーゲ海唯一の産地であり、マグロの骨とあわせるとこの時代の人々が舟でエーゲ海に乗り出すようになっていたのだと推測できる。
紀元前5000年になると羊や山羊、栽培種の麦が確認されるようになる。旧石器時代の人々と農耕牧畜を行った人々が同じ人々なのか、農耕牧畜をする人々が新たにやってきたのかはわかっていない。
新石器時代には後に文明の中心となるギリシア南部ではなく、北部のマケドニアやテッサリアが中心となっていた。
いくつかの特徴ある文化を経て、紀元前3000年頃に初期青銅器時代に入ると、エーゲ海のキュクラデス諸島にも特色ある文化が生まれた。フライパン型の用途不明の土器には、帆や帆柱をもたず、多数のオールで進む船が描かれている。キュクラデス諸島では地下資源が偏って分布していて、必要な石材や金属が特定の島でしか産出しない。この頃にはキュクラデス諸島の各島やギリシア本土との交易ネットワークが機能していたと思われる。キュクラデス諸島の文化とギリシア本土の文化には共通点が多い。
キュクラデス文化ではデフォルメのきいた大理石の人物像が多数発見されている。その姿はまるで20世紀に入ってからの現代美術のようだ。
多くの共通点を持つキュクラデス諸島とギリシア本土の文化は、紀元前3000年紀の間、大いに繁栄した。紀元前3000年紀の中頃には各地の集落が大型化し、ギリシア本土に近いエウボイア島のマニカ遺跡はヨーロッパ最古の都市である可能性もある。キュクラデス文化との共通性を示す遺物や、アナトリアとの関連を示す遺物が発見されており、交易で栄えていたものと思われる。
いくつかの集落では大型の建物も見られるようになるなど繁栄していた初期青銅器文化は、紀元前2000年頃に終焉へと向かう。この時期、多くの集落が焼け落ちている。この時期、後のギリシア人の先祖となる人々がギリシア・エーゲ海地方にやって来た可能性があり、その移動に伴う争いの跡なのかもしれない。
インド・ヨーロッパ語族に属するギリシア人がギリシアに現れたのはこの紀元前2000年頃という説が有力だ。紀元前1200年頃までにはギリシア語を話す人々がギリシアに現れていたのは確実で、それ以前に文化の断絶が見られるのが紀元前2000年頃となることが根拠となっている。
ただしギリシア人の到来時期については、インド・ヨーロッパ語族の拡散という大きな研究テーマと関わるため、今後の研究次第で大きく塗り替えられる可能性があるということだ。
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