世界史 その2.5 人種と民族
世界史その2では系統不明のシュメール人、セム系のアッカド人とアムル人など、いくつかの民族名が登場した。
では民族とは一体なんだろう。高校時代、貰ったばかりの世界史教科書を読んでいて、民族と人種は関係ないという一文に出会い衝撃を受けた。単一民族国家に近い日本に暮らしているとこの違いは意識しづらくて、ついつい民族という概念に血の繋がりを想定してしまいがちだけれど、それは間違いだということだ。
あんまり話がフワッとしていると判りづらいと思うので、もう少し具体的な話をしてみるよ。日本人には縄文系と弥生系がいると言われる。日本人のルーツとして南方からの人々と大陸から渡ってきた人々がいると言われている。これらの人々が混じって現代の日本人ができている。縄文人の血筋、弥生人の血筋と意識して婚姻関係を結んできたわけではないので、人種的にも混ざりあっているが、それ以上に文化的に同一性を持っている。
もちろんそれは近代以降に日本を国民国家にする目的のために人工的に為された部分も大きいけれど、それ以前だって文化の差異は地域差や、農村に住むか漁村に住むかといった環境の差、あるいは身分の差であって、縄文か弥生かで文化の違いがあったわけではない。
人種的な背景はどうあれ、日本人という民族は確かにあるんだ。
現在、国際化が進み、さまざまな背景を持った人々が日本にやって来ている。その中には日本を生活の場に選び、永住を決意し、日本国籍を取得する人もいる。国籍的には縄文、弥生、アイヌなど、何の抵抗もなく日本人と考えられる人種以外の「日本人」が増えている。彼らは国籍が日本だとしても、民族として日本人だと言えるだろうか。
僕はこう考えている。ある人が日本語を話し、日本人的な価値観を他の日本人と共有し、自分を日本社会の一員だと感じているのならその人は民族としても日本人だ。たとえ髪が金色だろうと、肌が黒かろうと、目が青かろうと、両親が日本人でなかろうと、だ。
日本語と日本的価値観については、周囲の日本人がその人を日本人と認めるかに係わる部分だ。日本人的な価値観を共有するというのは、何も日本人ならこうあるべし、こう考えるべし、という概念に拘束されてしまう必要はない。ただ大まかに日本ではこういう時、こう考える人が多いだろうな、という感覚が身に付いていればいい。個人としての信念や価値観は日本人離れしていても構わないけれど、社会に溶け込める程度に日本的な感覚が身に付いていた方がいい。端的に言えば言葉が通じる、そして話が通じるということだ。
そして何より大切なのは、本人が自分を日本人だと感じていること。個人にとっての民族とは帰属意識だ。これが長年真剣に考えた結果たどり着いた結論だ。
蛇足になるけれど自分自身を日本民族だと考えていない外国人が日本に暮らすことについて、僕はこの項では何も発言していない。そのような人を嫌ったりもしていない。
ここまでの文章を読んでヘイト的なニュアンスを感じたなら、それはきっとあなた自身の内面の投影だと思う。
さてテーマ的に現代社会に踏み込んでしまったが、この項は世界史コラムの補足だ。視点を地球全体の一万年以上に及ぶ人々の営みに戻そう。
歴史の中で数多くの民族が生まれ、消えていった。新しい民族が登場したと言っても、空中から生まれたわけではない。彼らは必ず前身となる民族集団の血筋を受けて生まれ、死滅しない限りはいずれかの民族集団に吸収されて消える。前身となる民族も1つとは限らない。多くの場合、それぞれの民族の居住地は重なりあい、民族をまたぐ婚姻関係があった。そしてそれでもそれぞれの民族は確かにそこにあった。民族を考える上で、血筋は意味を持たない。つまり遺伝的な身体の特徴で人を分類する人種の概念は、歴史ではさほど重要ではないんだ。大きな規模の民族移動を追いかけるときにマーカーとして遺伝子を利用する事はあっても、それは遺伝的な身体の特徴を取り上げているわけではない。
世界史の醍醐味は過去の人々と対話することだと思う。過去の世界に生きた人々が、何を食べ、どのように暮らし、何を感じ考えていたのか、何を信じ、世界をどのように見ていたのか。それを学ぶことでいつの間にか自分の思考を自ら閉じ込めていた檻を壊し、より自由な思考を手に入れる。過去の人々を理解しようとするとき、その民族の暮らしぶり、宗教、言語などが手がかりとなる。そして1つの民族が消えるとき、何故、どのように消えていったのかを考える。
僕はきっとこれからも、そのように世界史を学び理解していくのだと思う。