人物 山田長政

 数年前、ネットのどこかで「日本からタイに山田長政の像を建立しようと働きかけがあったが、タイ側に断られた」という記事を読んだ。日本側から働きかけたのが政府だったか団体だったか個人だったかは、残念ながら覚えていない。断られた理由は「実在が確認できない人物だから」ということだった。
 山田長政の実在を疑う意見があることを知ったのは、これが初めてだった。日本の偉人を取り上げた学習漫画を子どもの頃に読んで、「タイ(当時はシャム)で武将として活躍したが、敵対勢力によって傷口に毒を塗られて死んだ日本人」という内容を疑うことなく受け入れていたし、大人になってから「戦乱の世が終わって平和な江戸時代になった時に、東南アジアに渡り傭兵となった日本人が多数いた」という記事を読んだ時にも、その代表格として山田長政の名があがっていたように思う。
 最初の山田長政像の記事には詳しいことが載っていなかったので、タイでは実在の人物とは考えられていないのだろうか?と疑問に思いはしたが、それ以上は調べることもせずにいたのだが、先日『捏造の日本史』(KAWADE夢文庫・原田実)という本を読んだ時に詳しく解説されていたのでまとめてみる。

 山田長政について確実な史料と言えるのは、家康のブレーンだった金地院崇伝が編纂した『異国日記』という書物に、元和7年、山田仁左衛門長政という人物が、シャムから幕府重臣にあてて鮫皮や硝石を贈ってきたという記事がある。この人物はシャムの日本人町で成功した商人だった。
 日本人の海外渡航が禁じられると、海外で暮らした経験がある(と称する)人の回想録が人気になった。それらの中でしばしば山田仁左衛門が取り上げられるが、武将として成功しタイ王の信頼を得てその側近にまで出世していくという、山田長政のストーリーが形作られるのはこれらの出版物によってである。ただしその内容は互いに矛盾があり史料としての信頼性には疑問符が付く。
 明治25年「清水の次郎長」の異名で有名な山本長五郎が、静岡に山田長政の記念碑を建てるために相撲の興行を行った。同じ年には静岡の郷土史家らによる山田長政の伝記、パンフレットなどが、多数出版された。
 昭和初期には海外文献から山田長政の事績を裏付けようとする試みから、オランダ東インド会社のアユタヤ商館長エレミアス・ファン・フリートが著した『シャム革命史話』という手記が見いだされる。この本ではオーヤー・セーナ・ピムックという爵号を持つ日本人傭兵隊長が登場する。
 オーヤー・セーナ・ピムックはアユタヤ朝のソンタム王に仕え、王の薨去後は幼い王子を即位させるのに功があった。しかしながら摂政の手によってリゴールの太守に任じられ新王と切り離された上で暗殺されたという。この人物こそが山田長政であると研究者たちは考え、山田長政の事績が海外の史料でも裏付けられたとされた。

 現代の書物などで山田長政の事績とされるものは、この手記のオーヤー・セーナ・ピムックに関する記述が元になっている。しかしながら本当に日本人傭兵隊長オーヤー・セーナ・ピムックと、アユタヤ日本人街の商人とみられる山田仁左衛門長政が同一人物である証拠はない。
 山田仁左衛門長政という人物は実在した。オーヤー・セーナ・ピムックという傭兵隊長からアユタヤ朝の高官に上り詰めたものの政争によって命を落とした日本人も実在した。ただこの二人が同一人物であることを示すのは、江戸時代前半に出版された物語調の書籍で山田仁左衛門が日本人街の人々を率いて武功を立てて出世したり、シャムで王となったと書かれている内容がオーヤー・セーナ・ピムックの来歴に似ているということだけである。
 今回参考にした前出の書籍ではこれらの本を稗史の域を出ないとしているのだが、「山田長政 実在」で検索してざっと見てみると、歴史系ブログだけでなく論文の形になっているものでも、充分な史料的価値を認めているものが多かった。結局、「タイで王の側近まで上り詰めた日本人傭兵隊長・山田長政」が実在したか否かは、これら江戸初期の出版物の評価次第ということなのだろう。

 この文章をまとめて、改めてわからないことが多いというのは面白いものだなと思う。これから新しい史料が見つかる可能性は低いだろうけれど、何か全く新しい切り口から、思いもよらぬ知見が飛び出してこないか少し期待してしまう。未発見のタイ語の年代記とか見つかったらと思うけれど、それはそれでまた史料としての評価で大変な議論になるのだろう。そんな愉快な混乱は大歓迎だけれど。

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びぶ
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