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世界史 その2 シュメールとアッカド

 世界最古の文明が生まれたのは、現在のイラクにあたるメソポタミア地方だ。教科書でも解説書でも、メソポタミアとは「川の間の地方」という意味で、文字通りティグリス川とユーフラテス川の間の地域を指すという地理の説明から入るのがお約束だね。解説書だと現在のバグダードあたりを境にメソポタミア北部をアッシリア、メソポタミア南部をバビロニアとよぶ、更にニップル市を境にバビロニア北部をアッカド、バビロニア南部をシュメールとよぶ、とより詳しく解説されている。
 遥かな昔、バビロニア南部に世界最古の文明を築いたシュメール人、そしてその文明に合流したアッカド人がこの章の主人公となる。
 この地域の地理的な特性としては、豊富な水資源に恵まれている代わりに、常に洪水の脅威に晒されているということ。更に広大な沖積平野で防御に適した地形に恵まれず、異民族の侵入の脅威も深刻だということだ。
 歴史を勉強するときに地理を確認することの重要性は「世界史その1.5」で語った通りだね。
 用語については「シュメール」と表記するか「シュメル」と表記するか迷ったけれど、歴史の教科書にあわせて「シュメール」と表記することにするよ。

 メソポタミア南部に農耕民が現れたのは、紀元前5000年頃のこと。ティグリス川中流域でサマラ文化と呼ばれる文化を営んでいた人々の一部が移動したようだ。サマラ文化の人々は既に小規模な灌漑を行いコムギ、オオムギ、亜麻を栽培し、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、イヌを飼育していたという。
 メソポタミア南部に進出した人々が築いたのがウバイド文化でその開始時期は、本によって紀元前5300年頃とか紀元前5000年頃と少しずれがある。ウバイド文化は0期~4期に分類される。ウバイド3期にはウバイド文化の生活様式はメソポタミア北部、さらにアナトリア(現在のトルコ)南東部やイラン南西部に広がっていく。おそらくは灌漑農業の大発展が社会組織の発展を促したのだろうと思われる。
 シュメールで最古の都市国家のひとつであるエリドゥの発掘を通じて、ウバイド文化の時代から、後のシュメール都市国家が栄えた時代、アッカド人が帝国を建てた時代、その後のウル第3王朝の時代まで神殿が連続して発展していることが確認された。つまり戦争で他の民族に町が奪われるようなこともなく、同じ人々が住み続けたということで、ウバイド文化もシュメール人の文化だということが証明されている。ただし身体的特徴や地名の語源などの分析からシュメール人以前に「ウバイド人」と呼ぶべき人々が存在したという意見もある。

 ウバイド文化の時代を過ぎると、いよいよシュメール文明の都市国家が姿を現す。ウルク期、ジャムダド・ナスル期、初期王朝期という発展段階を経るのだけれど、ここではそこまで詳しくは扱わない。
 都市国家が発展して強力な王権が生まれるまでの間に、シュメール文明が生み出し古代メソポタミアの文明を支えた楔型文字が生まれる。粘土板に刻まれた初期の楔型文字が出土し始めるのは、紀元前3200年頃だ。
 楔型文字のあの特異な形状だが、あれは葦ペンで粘土板に文字を刻む必要から生まれたのだそうだ。葦と言ってもメソポタミアの葦は直径2cmもあるもので、これを削って三角形の断面をした軸を持つ葦ペンを作る。粘土板に細長い三角柱の葦ペンを押し付けることで、楔型文字が刻まれると知ったことはなかなかのエウレカ体験だった。
 楔型文字は発展したり簡略化したりしながら、アッカド語などシュメール語以外の言葉にも使われるようになり、実に3000年間の間、西アジアで使用され続けた。
 シュメール都市国家の発展は文字を生んだだけではない。大きな建造物が造営されるようになり、交易のためシュメール人がメソポタミア北部やイランなどに植民をしたりしていた。むしろ都市の規模拡大、建築や商業活動の複雑化などが、文字を生み出したのだろう。

 シュメールの都市国家群はその後、かなり後世に書き記されたものとは言え、王の名前を追えるようになってくる。「シュメール王名表」と呼ばれる文書には、その時代時代に覇権を握った都市国家とその指導者の名前が記されている。日本や中国の古代の資料と同様、神話と実際の歴史がほぼ区切りなく続いているし、また歴史時代に入ってからも文書成立時代の世界観に従って編集されているので注意が必要な文書ではある。大昔の支配者に現実離れした長い治世が記されているのも、古事記・日本書紀を思い起こさせる。更に時代が下ると、各都市国家の歴代支配者の記録が同時代の文書で確認できるようになる。
 高校時代の世界史の授業ではウル、ウルク、ラガシュの名前を覚えさせられたが、実際にはキシュやウンマなど重要な都市国家は他にもあった。これらの都市国家の間での戦争の記録も多く残っている。境界などを巡って争いながらも他国を滅ぼすまでには至らずにいる様子は、春秋戦国時代の中国やポリス時代のギリシャを思わせる。都市は宗教的権威による神権政治が行われたと教科書レベルでは説明されるけど、それぞれ独自の歴史を持つ各都市国家をそのように画一的に理解してもよいものかと考えたりもする。

 メソポタミア南部では当初コムギ、オオムギが栽培されたけれど、塩害に弱いコムギの栽培は時代とともに廃れたようだ。主な作物はオオムギとナツメヤシ。畑ではウシに犁を引かせて耕すのだけれど、驚いたことに種を一定の間隔で落とす器具まで使われていたということである。
 シュメール人はパンとビールを文明人の食べ物と見なしていたようで、これらが主食であったのだろう。またナツメヤシも食べる以外にお酒の原料になった。同じマガジンにメソポタミア文明とナツメヤシというエッセイも書いたので、できれば読んでほしい。
 食肉としてはヒツジが主だが、ブタも食べられた。ウシは主に役畜として飼育され食肉とは見なされていなかったが、牛乳は利用された。魚もよく食べられたようである。

 シュメール都市国家の時代は紀元前24世紀の中頃に終わる。ウンマの王ルガルザゲシがラガシュを占領し略奪した。ルガルザゲシは更にウルク、ウル、ラルサなどを占領しメソポタミアで初の領域国家を打ち立てた。
 しかしルガルザゲシの覇業は代を重ねることはなく、初の領域国家は北方からやって来たサルゴンによって倒され、ここにアッカド王朝が成立する。

 アッカド人はセム系の言語を持つ人々で、民族系統不明のシュメール人とは明らかに別の民族である。高校の世界史教科書だと後のウル第3王朝が出てこないこともあって、アッカド人がシュメール人を滅ぼしたようなイメージを持ってしまうが実際はだいぶ違う。シュメール文明の最盛期よりかなり前、遅くとも紀元前3000年紀(紀元前2001年~紀元前3000年)の始めにはアッカド地方にセム系の民族が住み着いていたらしい。シュメール王名表で大洪水後最初の王朝とされるキシュ第1王朝の王はセム語の名前となっている。つまりおそらく後のアッカド人の祖先となるセム系住民は、そもそもシュメール文明の一員だったということだ。
 シュメール人とアッカド人は言葉は違えどおそらくお互いを文明人として、同じ文明に含まれると見なしていた。これに対し文明の地に侵入を試みる人々に対してはかなり蔑んだ見方をしていたようだ。アッカド人と同じセム系の民族でも、同族とは思わなかったのだろう。

 サルゴンはキシュの王から独立し、キシュを破り、ルガルザゲシが建てた初の領域国家をも我が物とした。その影響力は地中海からペルシャ湾に及び、イランやレバノンに遠征し、遠くインダス川流域にまで交易関係を広げたとされている。
 シュメール王名表によればアッカド王朝は11代181年続いたが、第4代のナラム・シンの時代までが実質的に国家の体をなしていた時代で、それ以降は「誰が王で誰が王でなかったか(わからないほど国が乱れていた)」とされている。
 アッカド王朝は早くに力を失ったが、アッカド語は長く国際語として使われ続けた。

 異民族の侵入や都市国家の並立時代を経て、紀元前2112年にウル・ナンム王がウル第3王朝を建てた。シュメールとアッカドの両地方を再統一したウル・ナンムは運河の開削や、神殿の再建に力を尽くした。ジグラトと呼ばれる神殿を巨大な姿で修復した。そしてハムラビ法典に先立つ最古の法典も残されているが、これは実際に運用された法律であるかは疑問が残るようだ。
 2代シュルギ王の時代には、大量の行政・経済の文書が発掘されており、多数の書記による官僚制と呼べるような制度が発達していた。しかしながら異民族の活動が活発化し、シュルギは常備軍を編成し外征を繰り返さざるを得なかった。
 フリ人、アラム人、エラム人といった異民族の侵入や、地方に派遣した人物の離反などにより、紀元前2004年にウル第3王朝は滅亡し、シュメール人は歴史の表舞台からは退場する。

 これ以降、分立したイシンとラルサの両王朝、そしてメソポタミアを統一したバビロン第1王朝はセム系アラム人の王朝である。シュメール人はセム系の人々の中に次第に同化していったのだろう。イシン・ラルサの時代にはどちらの王朝もウルの王朝の後継者であることをその正統性の根拠とした。口語として話されることがなくなりつつあるシュメール語は、積極的に書き写され保管された。書記を養成する学校ではシュメール語の文章が筆記の練習に使われ、膨大な資料として現代の研究者を助けている。オリジナルではなく、この時期に作成された写しのみが残っている資料も数多い。シュメール文学については、オリジナルの写しなのかこの時期に新たに創作されたものか分からないほどだ。
 しかしながらバビロン第1王朝の時代になると、シュメール文化の名残は次第に薄れていく。シュメール人の血統と文化はゆっくりとゆっくりと、西アジア世界に溶けて消えていったのだろう。

 シュメール人とアッカド人は言葉は違えど同じ文明を共有する関係だったと考えたせいで、シュメールとアッカドを別々に纏めることができなくなった。書きたいことをかなりはしょったにも関わらず、想定よりかなり長い記事になってしまった。
 改めてもっと詳しく纏めることができればそうしたいが、機会があるだろうか。
 次回はその2.5で人種と民族について語った後、エジプト文明の誕生に進みたいと思っている。

 記事トップの画像は、名古屋市中央図書館入り口の柱。楔型文字を模したデザインになっている。実在の粘土板の文章の写しなのか、楔型文字風のデザインというだけなのかは不明。
 みんなのギャラリーにも登録してあるので、良かったら使ってください。
 記事の最後にトップ画像の解説を入れると、「博士ちゃんねる」さん(時々読んでるサイト)みたいで真似している気になるけど、他に書き込む場所もないなぁ。

追記。ニップル市について、最初「後にアッシリアの都になるニップル」と書いていたが、勘違いだったようです。ニネヴェと間違えた訳でもなく、本気でニップルもアッシリアの都だったことがあると思い込んでました。なぜだろう?

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びぶ
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