七つのロータス 第10章 ゾラ
空低くかかる巨大な夕陽が、遠くを見つめるアルタスの眼差しを逆光でくらませていた。それでもサッラの西門の櫓から、昨日突然に姿を現した帝国軍の陣営を、遥かに見下ろすことができる。さっきまでの戦闘もすっかり収まり、兵士たちも皆、荷車で囲んだ陣地の中に戻ってしまっているようだ。ここから見た限りでは、どちらも決定的な被害を受けたようには見えなかった。この戦闘を援護しようとサッラからも騎兵五百に加え歩兵千の大兵力を繰出したのだが、数に勝る敵に妨害されて、戦いの場にたどり着けなかった。今はサッラの部隊も城内に戻り、次なる戦いに備えている。この戦闘の間も、アルタスは後詰め部隊の一騎兵隊長として城内で待機していることしかできなかった。激しい憤りが胸の中で渦巻いて、吐き気に似た感覚を作り出している。
もの思いを破ったのは、背後に感じた数人の気配だった。振り返って人気のない空間に視線を巡らせる。ほどなくしてゾラが護衛や幕僚を引き連れて、櫓の上に上がってきた。
「ここに居たか。今、人をやって探させていたところだ」
アルタスは無言で頷くと、再び眼下に見えるおびただしい敵と、その向うの帝国軍の陣地に視線を戻した。
「何か変わったものでも見えるか?」
ゾラが抑揚のない声できいた。
「敵は挟撃される危険を冒してでも、我々と帝国軍の合流を阻止するつもりですね。全軍のおよそ半分をサッラと帝国軍の間に移動させました」
「帝国軍を先に包囲殲滅するつもりには見えないか?」
「いや、敵が展開しているのは、あくまで帝国軍とサッラの間です。帝国軍を包囲しようとはしていませんよ」
「帝国軍は牽制するだけに留めて、あくまでサッラの攻略を優先する構えだな」
ゾラは頷き、アルタスに歩み寄った。櫓の屋上の床と二階の天井を兼ねる板材が、軽いきしみ音をたてる。ゾラは狭間胸壁に両手をつき、敵陣を眺めた。
「何故、だと思う?」
ゾラの問いに、アルタスは虚をつかれた。返事もできずにいる息子に、ゾラは言葉を付け加えた。
「敵が守りを固めている城を攻めるのは、下策中の下策。古の兵法家も記しているところだ。帝国の学問や書物とは無縁に暮らしてきた部族でも、そのくらいはわきまえているだろう。それでもやむなく城攻めをしなくてはならないときには、じっくりと時間をかけるものだ」
「はい」
アルタスは未だに、ゾラが何を言おうとしているのかわからずに相槌をうった。
「しかし敵はずいぶんと焦っているように見える。兵士の犠牲にはまるで無頓着に、性急な攻め方をしてきている」
思えば梯子攻めや攻城機などでの攻撃は、もっと充分な数を用意していればより有効だったはずだ。夜闇に乗じ、あるいは門の一部を占領しているのを頼みにし たとは言え、結局は撃退されている。それにそれ以上の数が揃わなくとも、長期の包囲によってサッラ側の士気が衰えてからであれば、耐えられなかったかもしれない。
「しかし、それは敵の指揮官の性格によるものかもしれないではないですか」
アルタスはゾラに向き直ったが、父でもある族長は、遠く敵の陣立てを見つめたままだった。
「そうだ。だが、今、敵の陣形を見て確信が持てた」
アルタスは父の持って回った言い方に苛立ちを覚えた。
「いったい、どんな!」
「少しは自分で考えてみよ」
ゾラは初めてアルタスに向き直った。夕陽の色も時とともにさめ、紺色に変わりつつある空からの薄暗い光では、族長の表情ははっきりとうかがえない。
「城壁に守られたサッラの軍勢よりも、帝国軍の方が倒しやすい敵であることはわかるな」
言葉のないアルタスに、ゾラは更なる解説を加えた。
「敵が二分されているときには、弱い方を出きる限り素早く倒すのが兵法の基本だ。それなのに敵は、守りの固いサッラの城壁を掘りぬくことに集中して、それ以外に気を回す様子が見られないだろう。何故だ?」
帝国軍を放置しておけば、ただでさえ守りの固いサッラの市内に入城してしまうかもしれない。そうなれば帝国軍に背を向けてまでサッラの攻略に集中していた にもかかわらず、城内に今の倍もの敵を持つ事になる。合流を許さなかったとしても、五、六千はいるらしい帝国軍は、サッラの攻略をあらゆる手段で妨害して くるだろう。三万に対する五千では決定的な勝利を収める事はできないだろうが、これだけの兵力に背後を脅かされながら攻城戦を戦うのは明らかな不利。アルタスは必死で敵の立場に立って考えようとした。どう考えても先に帝国軍を片付けてから、あらためてゆっくり城攻めを続ける方が有利であるにもかかわらず、 なぜ敵はそうしようとしないのか。
「どこか帝国の辺境に送ってでも、もっと早く初陣に出させるべきだったかな。これでは、この戦いで儂になにかあったとしても、族長はお前ではなく、帝都にいるカライに譲るしかないではないか」
ゾラの言葉に、アルタスは反論しかけた。だが突然わき上がった別の考えが、アルタスの頭を支配してしまった。
「時間だ。敵は時間が無くてあせっているんだ」
一刻も早くサッラを攻略するためなら、どれだけ犠牲を払ってもかまわない。そう考えているならば合点がいく。だが、なにをそんなに焦るのだろう…。帝国軍が更に増援を送ってくること?だが、今まで見も知らなかった部族が、サッラと帝国の同盟についてそこまで知悉しているだろうか?もっと単純な理由はないか?
「兵糧…」
アルタスが声に出して言うと、ゾラが頷いた。
「そうだ。まず、間違い無いだろう」
アルタスは無言で父の顔を見詰めた。ゾラはなかなか先を続けようとはしなかったが、今度の沈黙は、先までの居心地の悪い時間とは別の物だった。
「敵の最も弱い部分を突くのが兵法の常道。敵が自軍よりも優勢であるならばなおのこと」
ゾラは右手を真っ直ぐに伸ばして、敵陣の一点を指差した。帝国軍の陣地よりはずっと小規模だが、幾つもの天幕を荷車で囲んであるのは一緒だ。ただし三万もの敵が全てその中に納まりきるわけもなく、荷車の防壁の外にも無数の天幕が並んでいる。
「あれが…?」
「そうだ。最初は指揮官の天幕かとも思っていたのだが、出入りする兵士を観察してみると、兵糧の貯蔵庫で間違いない様だ」
ゾラはそこで一度言葉を切った。顔は敵陣に向けられたままだ。
「あれがお前の攻撃目標だ。明日、騎兵部隊を三つ預ける。全て焼き払ってこい」
言葉を失っているアルタスに、ゾラは笑いかけた。
「何を驚いている?明日は全力での決戦に打って出る。サッラには兵力を遊ばせておく余裕はないぞ」
アルタスは無言のまま頷く。
「明日は全騎兵を投入しての大勝負に出る。この勝負に勝つも負けるも、お前の働き次第だ。わかるな」
「はい!」
息子の力強い返事に、ゾラは満足げな表情とともに頷いた。
父が他の人々も従えて立ち去ってからも、アルタスはそのままの場所に立ち尽くしていた。アルタスの立つ場所からはかなり低く見える城壁の通路には、無数のかがり火が一定間隔で並んでいる。敵がまた梯子で侵入して来ることがあったとしても、すぐに発見できるはずだ。
藍色の空は、アルタスが見ている間にも、その色を深めて行く。限りなく濃い藍色は、やがて黒、あるいは闇としか呼びようがなくなるだろう。
昼の光がすっかり消えて、大平原が真の闇に沈むのを待って、数人の使者がサッラから帝国軍の陣地に向かった。敵の監視がある門を避け、ロープを使って城壁の上から地上に下された使者は一人ずつ別々の方向へ散っていく。誰かが敵に捕らえられる危険を冒してでも、確実に帝国軍に伝令するためであった。
帝国軍陣地では、サイスが指揮官用の天幕に幾人かの草原の民を迎えていた。サッラの族長に臣従する各部族から派遣されてきた援軍は、特に騎兵戦力で敵に劣る帝国軍にとっては貴重な増援である。だが、サイスには迷いがあった。全く見知らぬ蛮族を、たやすく信頼してよいものだろうか?彼等の乗馬は、その大きな馬体でサッラ産と明らかな去勢馬ばかりである。サッラに臣従する部族だ、というのは嘘ではないだろう。ただし彼等の力量は全くの未知数だ。さて、どのように対したものか…。
援軍にやって来た各部族の指揮官たちもまた、とまどっていた。包囲されてサッラには近づけない故、帝国軍の陣営に近づいてはみたものの、彼等には帝国軍と共に戦った経験はなかった。直接臣従の誓いを立てているサッラの族長の指揮下ならばともかく、サッラの同盟相手であるという理由だけで、帝国軍の指揮下に収まるのは決して面白い考えではなかった。ただ現実として、全て集めても騎兵ばかり五百騎では三万を数える敵に対して、独立した戦力にはなりにくいと判断したにすぎない。サイス以下、帝国軍の全将兵が内心で抱いているままに「蛮族」との言葉を彼等に向けて投げかければ、たとえそれが一兵卒の言葉であっても彼等はすぐに席を蹴ったであろう。
言葉数は少ないながら、緊迫した天幕の中に新たな事態を告げる兵士がやって来た。兵士は戦場での当然の作法として、許しを乞う事も無くいきなり天幕の入口を開け放った。
「将軍!サッラよりの使者と申す者が参っております」
「よし通せ」
サイスは一言頷いたが、兵士は顔を曇らせた。
「しかし、今はお客人がおられるのでは?」
「よい。通せ」
サイスが断固とした口調で言うと、兵士はいくらかの明かりで照らされるだけの、闇の中に駆け戻っていった。
天幕に通されてきた使者はまだ少年だった。兵士として戦場に出すには歳が若すぎるのが、使者に選ばれた理由だと思われる。こんな子どもを危険にさらしてまで、一兵を惜しむとは…。サイスはこの国難にサッラの人々がどれほど強い決意で望んでいるのか、そしてどれほど追詰められた気持ちでいるかを思った。そして、解放者としてサッラの人々の歓呼を受ける自分を思った。
「七輪の蓮を束ねる皇帝の代理人であらせられる将軍に、第一の同盟国であるサッラの族長よりの言づてを慎んで申し上げます」
敷物の上に座りこんでいるサイスと数人の幕僚、そして「草原の民」の指揮官たちの前に跪き、使者はまずはしきたり通りの挨拶の口上を述べた。だがその言づての内容はと言えば、サイスにとっては我慢のならないものだった。
「皇軍を囮に使おうと言うのか!」
歳若い使者は、怒りを露わにするサイスに、怯えた表情を見せてなおさら低く頭をたれた。この子どもにあたってもしかたがない、そう思いながらも、苛立ちを押さえる事ができなかった。サッラから申し入れてきた作戦は妥当なものだし、結局はサッラ軍と帝国軍の合流を阻止しようと両軍の間に集結した敵の主力を挟撃しようという作戦だから、思わず口走った「囮」という言葉も過激過ぎる。だが、たとえ口上は「要請」あるいは「請願」という形であっても、こちらからサッラへ返事のしようがない現状ではこれは「命令」に等しい。朝になり、帝国軍が布陣していないことに気付いたサッラ側が出撃を見合わせればよいが、帝国軍が援護する意思を持たないのに、予定通り出撃してきたりすれば、サイスはサッラ軍の主力を見殺しにしたことになるのだ。どう考えてもサッラから申し入れ られた作戦をのむ以外、選択肢は無かった。だが帝国が同盟国と共に戦う時に、同盟国に主導権を取られたことはない。その不名誉を飲み下すには、いま暫く時間が必要だと思えた。それでも結論は既に出ている以上、時間を無駄にすべきではなかった。気持ちを切り替えねば。
「わかった。サッラ側の『要請』に応じることにしよう」
サイスは立ちあがり、各部隊の隊長たちを呼び出すために兵士たちを走らせた。
「もう遅い刻限だが、お客人たちにももうしばらくお付き合いいただきます。明日は共に戦って頂かねばならぬのだから」
サイスは援軍の将たちに向き直ると、当たり前のようにそう言った。
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