世界史 その16 二里頭文化-中国の青銅器時代の始まり-
世界史その6で仰韶文化・竜山文化に代表される中国の新石器時代文化について見てきた。黄河中下流域で竜山文化が栄えていた頃、長江の流域でも複数の文化が存在していた訳だが、その6で書いた通り、その共通性と独自性については研究者によってかなり評価が違うので、乱暴ではあるけれどこのコラムでは「仰韶期の文化」「竜山期の文化」とまとめて扱ってしまう。
仰韶・竜山の交代する時期である紀元前3500年頃から、少しずつ銅の使用が始まる。最初は純銅が使われ、紀元前2500年頃から次第に錫との合金である青銅が使われるようになった。仰韶文化では小さな銅片が出土し、竜山文化になると銅鈴が鋳造されている。また紀元前3000年頃になると居住地域を囲む城壁が建築されていく。これらが本格的な青銅器時代へと繋がっていくことになる。
さて夏王朝の遺跡とされる二里頭遺跡について語る時は、実在の証拠がないとされていた殷王朝の遺跡が発見され、更に古い夏王朝の遺跡が追い求められるようになった経緯を導入にすることが多いようだけれど、このシリーズでは発掘史や研究史は割愛しているのでここでは触れず、現在の研究でわかっている部分を紹介していく。研究にかかわった人々については、別の機会に紹介できればいいなと思っている。
紀元前3000年紀末に中国各地の新石器文化が衰退し、黄河中流域のみが竜山文化から連続的に青銅器文化である二里頭文化に移行していった。中心となる二里頭遺跡は後々まで中国の中心となる中原に位置し、現在のところ紀元前1750年頃から紀元前1520年頃までという年代が示されている。遺跡の年代は1期~4期に区分され、広さはおよそ2キロメートル四方。2期には井桁上の直線的な街路が整備され、中心に宮殿が置かれた。そして3期には宮殿の区画に土壁が巡らされ、現在「1号宮殿」と呼ばれている広大な敷地を持つ宮殿が建築された。
この宮殿には壁の内外に回廊が巡らされ、南側には大門が設けられている。敷地北側に置かれた正殿は南側に広がる中庭に面している。宮殿のコンセプトは、清代まで中国の歴代王朝に継承されてきた周代の宮殿のコンセプトと基本的に変わらない。つまり二里頭遺跡の宮殿はその後の中国の歴史をずっと貫いて受け継がれた宮殿建築の様式を既に備えていた。それは城壁の中を碁盤の目に整備された街路なども同様だ。数多く発掘される酒器や玉器からも周代にあったような複雑な宮廷儀礼の存在が伺える。
黄河流域では紀元前3000年紀にそれまでのアワ・キビに加えイネ・ムギが他文化圏から導入された。また紀元前2000年紀にはダイズがアワ・キビに次ぐ重要な作物となったが、紀元前6000年頃の遺跡からは野生種のダイズが発見されており、この間に採取の対象から栽培植物への変化が進んだことが推測される。二里頭文化に属する遺跡の発掘では、アワ・キビ・ダイズの順で出土量が多く、他にコムギ・イネ・オオムギが発見されている。雑穀と米は炊くか蒸して食べられた。
動物性の食物としては紀元前6000年紀に野生のイノシシが家畜化され、ブタへと変化した。紀元前3000年紀にはウシ・ヒツジの飼育が始まった。多産で生産性が高い代わりに雑食で人間の食物と競合するブタは、農耕の発達した地域で主に飼育され、農耕に不向きな地域ではウシ・ヒツジが飼育されていた。二里頭文化の遺跡ではブタと狩猟動物の骨が主に出土しており、ブタの飼育だけに依存するのではなく、狩猟・漁労も並行して行われていたことがわかる。調理方法としては焼け焦げた獣骨が出土していることから、煮たり茹でたりする以外に直火にかけて焼くことも多かったようだ。これが二里頭文化の次の文化である二里岡文化になるとウシの飼育割合が多くなり、肉を焼く文化は廃れてしまったと考えられている。
また動物の骨は卜占にも使われた。卜占は紀元前3000年紀の黄河上流で始まり、竜山文化を経て二里頭文化にも引き継がれた。その後二里岡文化になると卜占に使われた骨の出土量は増加する。
二里頭遺跡に成立したのは中国史上最初の王朝と考えられる。その直接的な影響範囲は半径100キロメートルに満たず、中原の中にも二里頭文化とは別の文化が存在していた。しかし二里頭文化で生まれた酒器や玉器は遠く内モンゴルの遼河上流域や北ベトナムまで伝播した。出土した遺物から二里頭文化は選択的に受容されたことがわかっている。つまり二里頭文化の人々の征服や植民によって文化が広がったのではなく、他の文化の人々がそれぞれの事情に応じて、文化を受け入れいていったと考えられる。
紀元前3000年紀の竜山文化の時代に存在したネットワーク的な交流は、二里頭遺跡を中心とする交流に変化したようだ。他地域から二里頭遺跡にもたらされた産物としては、四川・雲南地域産と推定されている銅鉱石や南海からのタカラガイなどがある。
二里頭文化3期に王権が成立した頃から鏃などの遺物が増え、暴力的に殺害されたと考えられる遺骨も目立つようになる。王権の誕生が積極的な軍事行動に繋がったかもしれない。二里頭文化と対立していた勢力は二里頭文化の領域の東側に存在した文化で、土器の特徴から後の二里岡文化に繋がる人々、つまり初期の殷王朝だと考えられている。彼らは二里頭遺跡から東に6キロメートル離れた場所に二里頭攻略のための強固な城を築き、そこを拠点に二里頭の王権を滅ぼしたとみられる。二里頭の人々は殷王朝の勢力下にあってもしばらくは独自の祭祀や青銅器などの製作も続けていたようだ。
二里頭遺跡の発見は中国史を考えるとき極めて重要な発見で、中国の歴史学界も非常に力を入れて研究しているテーマだ。それだけに次々と出される見解をまた覆すような発見が次々となされている。また中国における学問の自由という点で、欧米や日本の研究者が中国の歴史学界の動きに疑念を持っている部分もある。この記事についても、現在日本語で読める一般書を数冊読んだだけの歴史好きの一般人が纏められる範囲で纏めたものでしかない。これからも次々出てくるであろう新しい情報を注目していくべきジャンルと言えるだろう。
本業のサイトもご覧いただければ幸いです。