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消失点/フューチャー・イズ・ナウ|weekly vol.0117

今週は、うでパスタが書く。

というか、新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いをいたします。

もうこういうのにもすっかり慣れてしまいましたが、今年も年を始めるにあたってまずあかるい話題というのは思い浮かびませんよね。しかしとにもかくにもパンデミックは終わるはず、あるいは「二〇二二年の早い時期には終わっていた」とあとで確認されるということでまず間違いがないでしょう。これは素直に喜びたいところです。なんとか無事に生き延びた皆さまには本当にお疲れさまでした。不幸にも亡くなった方々には深い哀悼の意を表し、また様々にその傷跡を背負ってこれからの道をゆくという皆さまには心よりお見舞いを申しあげます。その他のカテゴリにいらっしゃる方は別途メッセージなどお寄せいただければ各個お応えさせていただきたいと思っています。私はこういうことには一応神妙である必要があると考えるタイプだからです。

私の昨年は、だいたいにおいて一昨年の続きのような一年でした。
結局これについては先にお届けしましたこちらのノートが我ながらよく書けていたと思います。本当にこのまま終わるのであれば、二年あまりにわたるパンデミックにまつわる私の「パンデミック文学」代表作として自薦することにいたします。

とはいえ昨年がひとあじ違ったところといえば家を建てようと思って土地を買ったことなのですが、これについては非常に苦労が多く、SNSでギャアギャア、ギャアギャア言っておりましたら年頭に引いたおみくじで「転居(やうつり)さわぐな」と言われてしまいました。
なにをそんなに騒ぐことがあるのか、ということについてはこれも昨年すでに以下のweeklyで触れております。家を買うのはそもそもローンを組むにしてもどれぐらいのローンをどういう条件でどこから引っ張れるかということからしていわば我々しがない平民出の軍人にとっては死力を尽くした大勝負であるわけでして、ある種、生きながらにして人生の総決算を迫られるようなところ、いわば生前葬に誰が何人来てくれるか(くれないか)を目の当たりにしてしまうようなところがあるわけですが、その伝でいけば結局私の葬式には友人・知人はほぼ来てくれなかったというような、そういう寂寥感のただよう決算とあいなったわけでございます。

人間とかく現実から目をそらすということ自体は常にそれほど難しいことではありませんし、「まだだ、まだ終わらんよ!」と言えるうちはそう言っていると実際それなりに人生ひらけてくるということも若いうちにはままあろうかと思います。しかしあるとき三十五年のローンを組んで家を建ててしまえば、まぁ景気にもよりますがその家を売り払ってさらに這い上がるというのも日本ではなかなか簡単にできることではなく、あれからもうすぐ一年が経つというのにまだ仕上がってもいない図面を見ながら「ああ、俺の人生で建つたった一軒の家がこれなのか」と下手をすればまだ人生残り半分もあろうかとういときにこう、なにか「おまえの行けるところここまで」を可視化されてしまうようで、これに結構おおきな精神的ダメージを負いました。
この被害はすべて私自身の積年にわたる怠惰によるものなのですが、結果その「残り半分」の人生もだいぶん縮まってしまったような気がしています。

もちろんこれには上の記事にも書きましたとおり(有料部分)、田舎で育った私の「家」に関する相場感が都会のそれにそぐわないという事情もおおいに関係しています。また、それにもかかわらずこの都会で子どもを育てていかなければならない折にあろうことか会社を手放して隠遁生活に入ってしまった私の人生行路の道行き上、突然家を保有すべきタイミングがきたというのも心理的にはうまくなかったと振り返っています。こういうのはもっと前々から、当然いつかそうするものとして人生の目標にまたは少なくとも道標としてそこへ据えておくべきものだったのでしょう。私がいままで馬鹿にしてきたこと、いまそれらがすべて私を責めてきます。

しかし毎度のようにご登場願う私のカウンセラーに言わせれば、「それは皆さんが経験なさることですから大丈夫」というわけで、そうか、つまりこれぐらいの歳になる頃にはみんな「自分の人生はこのぐらいまで」ということがそろそろ分かっているのだなと、なまじ若いときに大きな組織を嫌ったがために序列を意識することがなく、自分がいまどこにいるのかも分からないままフラフラと仕事をしてきた私の方が端から見ればさぞや愚かなことであったのだろうと気付いたときにはしばし滂沱たる涙にくれたものです。

思えばここ数年で自分の創業した会社の株式を証券取引所へ上場させるという偉業を為した知人(というほど親しくもないことの方が多いですが)が何人かいらっしゃいます。
私はそもそも仕事をすること自体が嫌いですし、「自分たちの会社だから」と思えばこそ何とか身を切るようにして働いてきたこともありますので、会社がパブリックなもの(つまりは誰とも知れぬ無数の株主のもの)になったときにはそれ以上働くこともできないでしょうから、「自分もジョウジョウしたい!」と思ったことはいちどもありません。これは本当です。しかしかの社長たちにはそれはそれは大きなお家が建つのであろうなぁ、などと思うと最近はこの胸がマジでキュッとするのであります。

そこでこの正月休みはこうした敗残者の視点から、「ところで創業した会社を株式が上場するところまで育てるひとってどういうひと?」というのを田舎のスーパーにある無料のマッサージチェアの上でこまかく振動しながら考えておりました。するとまぁ数少ない例で恐縮なのですが、私の直接・間接に知る限りはやはりこうした経営者の皆さんの燃えるような情熱には私は着いていけない、それが仮に嘘だったとしてもそれほどの長期にわたり徹底的に嘘をつくこともまた私にはやはり不可能なので、これは努力云々や何やの話ではないなということであらためて納得をしたところでございます。

そして私の知る限りこうしたひとたちは例外なく他人に厳しいように思います。自分にも厳しいかどうかは訊いていないので分かりませんし推測はよしておきます。いずれにしましてもこの他人への厳しさもやはり事業を通して実現せんとするビジョンへの強い情熱のなせる業だと思うのですが、そもそもその情熱を持ちあわせない私にはこの厳しさはときに見るに耐えないものがあります。何も株式上場が金儲けばかりだというわけではありませんが、たとえば昔から「カネを稼ぐには義理を欠き、恥をかき、人情を欠く、“三角主義”が必要」というひともおりますし、そこまでやるためにこそは何らかの巨大なビジョンがなければならない、そのためには他のすべてを犠牲にできる何かがなければ事は成せないのだなと感じます。

一方で私が常々魅力的だと感じる経営者の皆さんは、その他人への甘さがゆえに私の企画へいきなり二千万円を真水で投げて三ヶ月ぐらいで全損になったりしていますので、「魅力的だなぁ!」と感嘆すると同時に「そりゃ上場は無理だね」ともつくづく思います(失礼)。とはいえ別に金儲けが下手だというわけでもなく、むしろ私などよりははるかに大きな富を蓄えつつ、しかしこうした皆さまは例外なく賃貸マンションにお住まいだというのは大変興味深い点です。つまりご本人は「いつかは俺も証券取引所の鐘を鳴らしたいなぁ」なんて言いながら、実際にはいろんな意味で総決算的な何かからは常に逃れつづけながら生きる、そういう性をお持ちなのでしょう。直接新年のご挨拶はしておりませんが、そのうち私へもまたカネを投げていただきたいと思っております。

本の話をします。
というのも先の配信でお話しした通り、私たちの昨年の反省には「本の話よりカネの話の方が多かった」ことがまず第一に挙がっており、これはとりもなおさず思いがけないデルタ株の猛威により各国・地域の緩和的な金融状況が継続し、昨年も一昨年にひきつづいて株式市場が沸騰状態にあったからなのですが、冒頭に紹介したノートでも喩えましたように、一世を風靡したCOVID-19が昨年末にリリースしたニューアルバムは不発、次はもうレコード会社も移籍せねばならず場合によってはインディ・レーベルで活動することになるかもしれないという状況でございますので、いよいよ金融政策は引き締めまたは正常化が始まっており、今年はもう株もそれほど楽しい話題ではなくなるからです。そのぶん今年はたくさん本を読んで、本の話をしていきたいと思います。仕事がうまくいかなくなった男というのはいつもこうです。

秋からウィリアム・ギブスンの作品を文字どおり乱読しています。
自宅でペーパーバック、外出先で文庫本、就寝前にkindleで、それぞれ違う作品を並行して読んでいるのですが、ひどい場合にはおなじ名前のちがうひとが出てきたりしますし、特に九〇年代以降に書かれた作品はSFというよりはハードボイルドで構造がだいたいおなじなので非常に混乱します。しかしこの記憶や認知の混乱自体がサイバーパンクのテイストでもありますので、映画でいう4Dみたいな読書体験としてこのまま乗り越えていきたいと思っています。

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