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「永遠も半ばを過ぎて」|weekly vol.0112

今週は、うでパスタが書く。

私がいつか世に小説を発表したいという思いを抱きながら、かような雑記ばかりをしたためる無間地獄にいることは、すでに公知となった恥である。
その道のひとびとは、「短編小説を書くことと、長編小説を書きあげることとは本質的に異なる行為だ」と言う。そしてそもそも長編小説を書きあげることのできるひとというのは限られているから、とにもかくにも長編にオチをつけるところまで書けるのだとしたら、そうして三本も書いているうちには立派な作家になっているということまで言うひともいる。本当だろうか。私は一〇万文字ある小説をまだ一本書いたことしかないので分からない。

「長編小説を書く要諦は」と、さらにあるひとが書いているのを読んだ。「広げた風呂敷をうまく畳むこと」ということだった。曰く、短編にはその必要がなく広げっぱなしでも読む方が畳んでくれるからいいのだそうだ。この「畳むこと」にはどうやら技術以上に書き手の根性が必要なのだと他人事のように理解した。

近頃は小説を書くどころかめっきり物を読むこともなくなってしまったと友人に打ち明けたら、「でもおまえのいま生きてる人生自体が小説みたいなものだから」と言われて思わず手が出そうになったのはもう二〇年もまえ、まさに私の大風呂敷があてどなく広がりつつあったそのときで、場所は忘れもしない表参道のエルトリートだった。
表参道にエルトリートがあったということ自体いまでは考えられないので、それだけの月日が経ち、東京の街もその様相を変えたということだろう。なぜわざわざエルトリートなんかで飯を食っていたかというと、エルトリートというのは僕が筑波大学に彼を訪ねていくたびにマニュアルシフトのくず鉄みたいなスターレットで連れていかれたのがエルトリートだったからだ。うっそうと生い茂る筑波の山の中に建つ店へ近付くにはほかの方法がなく、酒を飲んだグループは全員が飲酒運転の車で帰るという時代だった。いまもそうなのかもしれないが、いまなら私は友人の運転を止めるであろう。それはもう、時代が許さないということだ。二〇年というのはそういう年月だということを若いひとたちは決して理解しないため、世の中のある種のゲームでは必ず老人が勝つようになっている。

近頃、界隈で話題になっていた「平熱のまま、この世界に熱狂したい」を私も読んだ。

この世には「大人」という言葉が独特のニュアンスで使われる場面があり、たとえばそれは「大人になれ」とか「子どもが親を大人にしてくれる」とか、「大人になりきれていない」とか、あまりブレークダウンされることのない「原子的」な何かとして、少し目をそらしながら語られることの多い言葉だ。「おまえが充分大人なら、何が『大人』かは説明しなくても分かるはずだ」という循環論法やトートロジー、またはフラタニティの合言葉のような「特権的な都合のわるさ」を感じて私はおおいに不愉快である。

しかし「平熱のまま、この世界に熱狂したい」でも紹介されている村上春樹の「プールサイド」は私自身、言われなくてもしばしば思い出す短編で、主人公がある日、鏡のなかの自分を見つめたときに「今日が人生の折り返し地点だ」ということを悟るというか、そう決めるというこの話の冒頭はずっと心のどこかに取り憑いている。
人生が別に折り返す必要もなく、ただ未来へとまっすぐに伸びていく一線でもいいじゃないかというのは本当に仰るとおりで、奇しくもこれは私の生まれた一九七〇年代に「アメリカン・ニューシネマ」というムーブメントで彩られた人生観だ。お薦めの映画には「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て!」そして「バニシング・ポイント」などがある。特に「バニシング・ポイント」なんかは「十五時間止まらずに走り続ける賭けをしたドライバーが行く手につくられたバリケードに突っ込んで爆死する」というだけの話なので私の書く記事においては稀にみるレベルでコンテクスチュアルなご紹介だと言えよう。

「平熱のまま、この世界に熱狂したい」の著者が決して尖った生き方をしてきたとは思わないし、本人もただ弱さを慰めるため酒を飲み、自分と自分の人生を痛めつけてきたぐらいのものだと繰り返し認めているのだが、さりとて著者の言わんとするのは、二回も病を患ってついに酒もやめることになり、父親が死んで子どもが生まれたといういま、自分の人生にいままでとは違う向き合い方ができそうだ、ということであり、これは要するに「大人になる」ということであって、これが世にもめずらしい「大人」という言葉のブレークダウンだと私は感じる。そういう意味で著者は作家として立派な仕事をしていると思うし、それがこの本のウケている理由だろう。

なお、この本には冒頭から無数の引用が登場するが、その原典は多くの場合、私にとって「同時代」である。昔は小説やエッセイを読むたびに言及される未知のアーティストや作品に文化の香りをおぼえて飛びついたものだが、あれも結局作者が生きてきた時代の名残りに過ぎなかったのだろうといまは思う。著者と同世代にあたる私が「平熱のまま、この世界に熱狂したい」を読むとき、登場する引用の多くは私にとりまだキッチュで、生々しく、あるいは鮮血を流していて、つまり「引用にしては軽薄」に感じるということだが、それはとりもなおさず私が自分たちの熱中してきたカルチャーに対して結局はそういう感想を抱いているんだということに他ならない。我々の生きた時代がなんらかの重みを、意味を持つためには我々が死ななければならない、そういうことなのかもしれない。

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