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毒親|2022-06-05

今日は、うでパスタが書きます。

かつてWeb2.0と呼ばれたこともある双方向または総発信型のインターネットを、私は嫌いになることができないばかりか日々過剰にそこへ淫していることすら認めざるをえないわけですが、そんな「ウェブ」では今日も我々の義憤が誰かを追い詰めています。

「正義は貧者の娯楽である」とか、「貧しい者に残された最後の娯楽が怒りである」とか、それ自体かなりひどい言説もしばしば目にするようになりましたけれども、ミクロにはそういう側面にも首肯せざるをえないというものの、より巨視的には「だってしょうがないじゃない」というのが正直なところです。決してウェブが悪いわけではありませんし、貧しさが悪い(貧しさ自体は悪いのですが)というわけでもありません。人間とはもともとそういうものなのです。

「シン・ウルトラマン」という映画を観て、「エヴァンゲリオンじゃん!」と叫んでいる軽めのオタクを何人か見かけたので(「シン・ウルトラマン」を観たガチのオタクはウルトラマンの話しかしていません)、「そうか、そういうことか」と思って劇場へ足を運んだのですが、「どこがエヴァンゲリオンやねん」という肩透かしを食らって帰ってくることになってしまいました。
もちろんこの思いちがいは私のせいで、私は何を思っていたかというと「シン・ウルトラマン」のストーリーを、「単生」とでもいうべきか、つまり一種一個体の生物である怪獣(使徒)と、やはり怪獣の一種であるウルトラマン(渚カヲル)が、唯一群生の怪獣である人間の未来をめぐって戦う「エヴァンゲリオン」なのであろうと、これは観にいかなければなるまいと、こう見当違いの期待を抱いていたのであります。
これは事前に聴き込みすぎた主題歌の「M八七」に引きずられたことも大きいのですが、もともとウルトラマンにはそこまで思い入れもない私の落胆は大きく、「エヴァンゲリオンじゃん!」と言っていたひとたちに対しては酒が入るとかなりひどいことを言ってしまいそうです。

ともあれここでは何が言いたいかと申しますと、人間は「人間」というひとつの種でありながら、どこまで行っても私たち人間同士の群れに過ぎず、“企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても”あるいはそうなればなるほどに互いの気に入らないところは目にあまり、その激しさはともかく諍いの種はむしろ増えこそすれ、減ることはない、つまり平和は永遠に崇高な理念にとどまるであろうことをあらためて感じるものでございます。
「現実と理想との隔たりに人間の悲惨があり、現実から理想に向かおうとする意思に人間の栄光がある」(「リヴァイアサン」訳者あとがき/柴田元幸)という言葉を私はこれからも残りわずかな人生のつづくかぎり高く掲げていきたいと思うものの、「我々は前進している」という錯覚に益はありませんし、「前進すべきである」という規律がむしろ有害であることは日本赤軍その他の有志団体が過去に身銭を切って実証してきたところであります。

さて、足もとでは「夫の死をマンガに描いて財をなした」と公言しながらシングルマザーとしてふたりのこどもを育てる様子をありがたい人生訓調に描いてきた漫画家の西原理恵子が自分の娘を精神的に追い詰めてきた、いわゆる「毒親」だったのではないかということがその娘自身の告白(あるいは“告発”)から取り沙汰されております。
さらには、もうしばらく前のことになりますが徳島県からスタンフォード大学へ進学したという女性がその苦労談を出版したところ、「実際には並外れて恵まれた環境にあったにもかかわらず不幸自慢をしており、有害である」という旨の長文のアマゾンレビューが付き、著者が「炎上」するという事件がありました。最近になってこの女性が批難には根拠がないと反論する目的で公開した文書のなかでは、両親との関に大きな問題を抱えていたことがほのめかされており、ここにも過去・現在から未来にまでおよぶ毒親問題が横たわっているらしきことが明らかになりました。

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