小さな街の大きな戦争|2024-01-21
今回は、うでパスタが書く。
残りわずかとなった人生を悔いなく生きるためのよすがとして、自分にはほとんど唯一有効なやり方であることが分かっている「時間割方式」を年始から採用した。毎日やるべきことをやるべき時間と一緒に定めて、とにかくそれをひとつひとつ片付けていくという原始的というか原初的なタスクマネジメントだ。
実はこれは私がまだ実家にいた頃、父が採用していたメソッドだ。当時まだ無尽蔵の集中力と活力のあった私にはそんなものが必要だとは思われず、ただ貧弱な精神と創造性が父に与えたものだと思っていたが、結局はそういうことになってしまった。答えはずっとそこに用意されていたのに、あきらめてそれを手に取るまでにムダにした日々を数えていてももう仕方がない。こうなっても前へ、前へと進むしかないのだ。
歳をとるにつれ本を読む時間が惜しくなるというか、本を読むたびにひとは歳をとって追い詰められていくという話を書いた。
もうひとつ難しいのは過去に読み終えた本を再読することだろう。
そもそも実用書の類いを手に取ることはいくつになってもさほど難しくないということは上のノートでもほのめかしたが、この手の本はそもそも再読するという「必要」がなく、構成や編集への敬意を払うべくいちど通読してしまえばあとは思い出したいところだけを適宜参照すればよいだけだ。だが小説はそうはいかない。
どうしても「デニーロ・ゲーム」をもういちど読みたくなって、取り寄せた。もう死ぬまでには何冊も読めない、そのうちの一冊を「デニーロ・ゲーム」の再読に充てたいと思ったのだ。最初からそのつもりでもあって、度重なる引越の際にも紛失や処分を注意深く避けて現在のビブリオテーク・ド・キノコに納めた本だが、無駄に生き急いでいるため九段下まで取りにいくのが間に合わずAmazonでもう一冊買った。
喜んだらいいのか悲しんだらいいのか分からないが、二〇一一年に白水社から出た初版がまだ手に入る。
一万の砲弾が降り注ぐレバノンのベイルートで、ふたりの少年がともに育ち、「デニーロ」のあだ名で呼ばれたジョルジュは「僕」よりほんの少し早く、自分の銃を手に入れる。切れ目なくつづく爆撃と砲撃のなかで、死と破壊は日常と溶け合い中東の街に漂う埃のなかでその境目を見分けることは日に日に難しくなっていった。
学校をやめてしまったジョルジュは民兵たちに接近し、誰もが死ぬか見捨てていく街を一日もはやく抜け出したいと願った僕は、ジョルジュの持ち込んだ儲け話へ手を貸すことにする。内戦はエスカレートし、イスラエル軍の介入が始まり、さらに一万の砲弾が降り注ぐなかでジョルジュは奇妙な焦燥を強めていき、僕はいくつもの裏切りに気付き始める。
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