magic hands | weekly
「株価というものがまだ操作可能だった時代の話だ。
電話や電信を使って価格や数量を伝えていたので、容易にフロントランニングができたし、現在値がいくらなのかを把握している人間はほぼいなかった。よくそんな環境でものを売り買いすることができたなと今になってみれば思うかもしれないが、他に方法がないし、実際にそれでも儲かる時には儲かった。世界にはマネーが溢れ始めていたし、株式市場にはオリンピックのように参加することに意義があるという雰囲気があった。株式投資に難しい理論的な根拠なんていらない、上がりそうなものを買い、下がりそうなものは売ればよかった。オプションやデリバティブ、コンピューターが出てくる前の話だ。そう、ずっとずっと大昔の話だ。でもその頃に稼いだ10億を管理が面倒だという理由でSP500のインデックスに投資していたおかげで、俺はいまこうしてお前を相手に昔話をしてもなお十分に金が増えている。ミレニアルズがなんだか知らないが、若い奴らが経済的に不安定だとか、副業をしないと生きていけないだとか、そんな話を聞いても、時代が悪いのさ、としか思えない。昔に比べればずっとずっと世の中は良くなっている。突然刺されたり撃たれたりすることも減ったし、ちゃんとした酒だって飲める。」
「駐車場には、黄色いポルシェ、赤いフェラーリ、ブラックのAMG、ブルーのアストンマーティンにシルバーのマセラティ、グリーンのジャガーにゴールドのベントレー、あとはなんだか忘れたけれども、まあ色とりどりのスポーツカーが並んでいた。朝早くからスーツを着込んだ人間がスポーツカーに乗って集まり、やることといえば医者に電話をかけてペニーストックを買わせることだった。店頭公開株、というのが正しい呼び名なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない、ティッカーのシンボルが何の略だかも分からなかったけれど、電話をかけまくってソレを売りさえすれば金がもらえた。その金でいい酒を買い、クルマを買った。そういう時代だったんだ。今はその時に稼いだ金で買ったワイナリーを経営しているよ。あれからお金と時間だけはあったからね、昔はできなかった勉強というやつをしてみたんだ。ギリシャの哲学書から、最新のコンピューターサイエンスまで。ちょうど今はワイナリーのIoT化を進めていて新しいD2Cのビジネスモデルをコンサルタントと作っているところなんだ。世界中にファンが居るからね。みんなの意見を聞きながらビジネスをするのは楽しいよ。ワインは自分で作ったものだし、今は自分が何を売っているのかよく分かるから(笑)」
「各時代にはシンボルとなるものがある。かつて日本にはタワマンという言葉があった。数十階建ての高層≒タワー型のマンションのことをいうらしい。人口が密集していたエリアでは住居用に利活用できる土地が少なく、横ではなく上に開発をするのが流行っていた。塔というのは神話の時代から不敬の象徴でもあった。人類は富と人口と罪の集積を経て、巨大な都市を建設した。国際金融センター構想、というものがあったが、結局なんだかわからない間に構想していた期間が過ぎ、廃墟となったタワーマンションだけが残った。マネーゲームの末に高値で売買されていたタワーマンションを維持するだけのマネーフローはなくなり、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに見向きもされなくなってしまった。朽ちていくものにある種の美を感じるのは、そうでもしないと受け入れることができない辛い現実と向き合うために神が与え給うた能力なのか、あるいは進化の過程で身につけた合理化の一種なのかは分からないが、ある種の廃墟、その壮大な廃墟を目掛けて多くの人々が何らかの意志を持って行動を起こしていたという、そういったイマジネーションを働かせるトリガーにはなるのだろう。しかしマネーゲームによって生み出されたのは廃墟だけではなく、上手くエグジットできた強者もいる。強者は通常名乗り出てくることはない。出てきてもいいことはなにもないし、納めるべき税金を納めてさえいれば引きずり出されて火炙りにされることもないからだ。」
「無限に富を生み出すアルゴリズムを開発したかに見えたヘッジファンドは、レバレッジをかけ、どんどんと資産を増やしていった。これまでの運用期間でのドローダウンはゼロ。奇跡が起きていると誰もが口にした。その日が来るまでは。」
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キノコです。
どのように受け止めるべきなのか、消化に時間のかかる発言ってありますよね。例えば、もっと優雅だと思っていた、という感想とか。もっと、のところから分かるのは、想像と違っていたということです。優雅だと思っていた、ということは現状は優雅さとはかけ離れている、ということです。そこに滲み出てしまう失望や、暗に設けられていた期待値の高さというものに我々はどのように向き合っていけばよいのでしょうか。幸福に生きていくためには小さな幸運を見つける能力を磨かねばならない、と言われています。茶柱が立った、というのはいい比喩で、日常的に口にするお茶の中に浮いた茶柱が実際に幸運の兆しになることはないとは知りつつも、茶柱が立つか立たないか、という些細で確率的な物事の中にも幸運の予兆を見出すという、その姿勢のことを言っているわけです。さておき、図書室に人が出入りするようになって図書室に期待される役割や、自分がソレと思っていた何かとのギャップなりを今後どのように調整していくのか、というのはライフワークとして取り組み始めただけあって楽しみではあります。いや本当に。でもまあ、料理通信の小さくて強いお店特集とか、専門料理の開業準備、何がいくら必要なの?というもので相場観を把握しているキノコにとっては、あのスペースでもいわゆる飲食店の優雅さみたいなものを醸すためには先日のnoteに書かれていたのの15倍くらいは投資をしないといけないということを知っているので、身が引き締まる思いですね。
最近購入している本や実際に日々書いたりしていることを振り返ると、どんどんお金に興味がなくなっていっているのを感じるのですが、とはいえお金はあっても困らないものですし、家族や趣味に使うためにはある程度まとまった額が必要な時もあります。気がつくとお財布の中から現金がなくなっているということもあるので、そういう場合にすぐに用立てられる備えも必要です。いくらあれば十分と言えるのか、という話と、宝くじあたったら何に使う?という話はけっこう似てるよね、と思いつつもしばしばその手の話題には参加するのですが、人間使ったことのある金額にどうしても左右されるのか、5,000兆円みたいな突拍子もない事を言う人はインターネット以外ではあまり見かけず、億以上の単位を言ってくる人間は皆無という感じです。まあ無限にお金があったらそもそもお金の価値は暴落するわけで、現実的に多くの人間がシビアな金銭感覚を持っているということはよいことなのかもしれません。
先日何かで読んだ、「神の見えざる手はデリバティブと強欲によって切り落とされてしまった。今はその血溜まりの中で虚栄の上に富のようなものを築いているだけだ」という一節がなかなかいい話だなと思います。マネーゲームの生んでいるものが何かを残忍さとともに描写できているような気がしませんか?
とはいえ、マネーゲームでもいいから不労所得は欲しいものです。ということで、本日は不労所得が欲しい、という話を再度考えてみたいと思います。
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