天才とならず者|2023-07-19
今回は、うでパスタが書く。
子育ての過程で腰が終わってしまった。
とにかく前へかがむのがキツくて、いままでは普通に床のうえに置いて使っていたものも下に台がしてあった方が手が届きやすくなり、なんとなく家中のいろんな物が空中に浮かんでいるようになってしまった。低いところの作業をするのにも靴を履くのにもちょっとした腰掛けを使ったりするので、家のなかがどんどんと思い出にある祖父母の家の風景に近付いていく。
つまりこの終わり方は本格的で、宿命的であり、要するに不可逆的だ。
創作物では今際の刻をむかえたひとがうまく最後の言葉を口にして息を引き取ることがあるが、そのときが来たらきっと自分にもはっきりそれと分かるに違いないと、そう思うようになった(板垣退助は「板垣死すとも自由は死せず!」と叫んだとき死ななかったらしく、絶対こうはなりたくないなと昔から思ってる)。
人間はとかくリスク回避性向が強い、という話はもう聞き飽きて随分になる。つまり何かを得られる可能性があっても、おなじだけ失う危険性があるならひとはその賭けに乗らない。よほど得られる可能性が高いか得られるものが大きければ(つまり期待値が極端に大きければ)それにつれ賭けに出るひとの割合は増えていくが、そのビューはいつも「失うこと」を非合理なほど強く警戒しているというのが研究の成果らしい。
人生はすごろくではないから、「非合理」と言われてもそもそもが完全に再現しうるサイコロ振りの連続ではない以上、合理的な判断もなければ非合理な判断もない。だがどのようなセッティングにせよ私たちの怖れる結果は私たちが怖れるほど高い確率では訪れないものらしいということは覚えておいてもいいのかもしれない。
まだ青春十八きっぷで東海道本線を往き来していたころ、どこだったか湘南のあたりから乗った快速アクティのデッキで小学生の男の子ふたりと一緒になった。いわゆるお受験の結果としていずこか私立小学校へ通っているとおぼしきふたりは漫画のような分厚い眼鏡をかけてドアにもたれながら、自分たちの行き着く先について喋りつづけていた。
「まぁエジソンもさぁ」とこちらを向いて立っている方が言っていた。「エジソンも学校は出られなかったけど、やっぱりああいうエジソンみたいのにやることやってもらわないと世の中なりゆかないからさ」
こちらに背を向けた方の男の子もこう言った。
「やっぱ天才は天才でやることやらないと俺らにはどうしたってああはならないわけだから」
片田舎に生まれ育った私とはちがって幼い頃から日本屈指の激戦をたたかってきたふたりは、自分たちが見るべき夢を見定める必要があることをすでに学んでいるようだった。あるいは自分たちがどんなに速くその歩みを進めたところで凡人の行ける範囲より遠くまでたどり着けるわけではないことを予感して、この努力や苦労が果たしてどのように報われるものなのか、疑問に思い始めていたのかもしれない。いまならきっと三十代のなかばも過ぎたであろう彼らふたりの心境も、私ような人間にだって当時よりはいまの方が想像しやすいというものだ。
あまり勉強ができないが運動が得意なやつの家へ遊びに行くと、「漫画なぜなに辞典」みたいなシリーズと、「漫画偉人の伝記」シリーズがだいたいピカピカのままくるピタデスクの本棚に並んでいた。うちはとにかく親が漫画を読ませたがらない家だったから、そうした家へ行くと私はこうしたシリーズをむさぼるように読んだわけだが、「なぜなに」の方は読めば結構役に立つというか、いつか授業で出てきても理解が速く、深まる助けになっただろうといまでも思う。その一方、「漫画偉人の伝記」シリーズの効用はいまもって謎である。
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