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A Promised Land/家庭菜園に死す|weekly vol.0099

今週は、うでパスタが書く。

デスクに放り出した二つ折りの携帯電話が鳴ったのは二〇代の終わりごろ、あてがわれていたオフィスの椅子に腰掛けて、二日酔いの最後の山を乗り越えるためにじっとモニタを見つめたままで、まもなく三〇分が過ぎようという夕方のことだった。

「うで、パスタさんのお電話ですか」とその声は言った。
いまでは信じがたいことだが当時僕は自分の名刺に携帯電話の番号を載せていて、それがとにかく多くのひとびとの利害のウェッブに絡みついてわらしべ長者たらんとする自称「弱者戦略」の一環だったから、こういう電話はよくあったし、そこまで嫌でもなかった。
いかにも、と僕は椅子の背に倒れ込み、天井の隅をにらみながら応じた。うでパスタです。失礼ですが、そちらは?
少し息を飲むような間をおいて、声の主はこう言った。
「あなたは騙されようとしています」
「誰に?」
「いま買収をお考えの会社には、ご想像のような実態はありません。私はそれを知る立場の者です」
「いま買収を考えている会社がないのですが?」
相手は少し黙ったあと、名前と所属を名乗った。
「いちど、うでさんのお目にかかってお話しをする必要があると思います」

内部通報者から連絡があった、と知らせると社長はめずらしく深刻な顔をした。
「どうすんの」
「どうもこうも、会いますよ」
「どこで?」
「平河町のTさんのとこを借りました」
いまでは「ハメ込みのテツ」と呼ばれているTさんは当時まだ出入りの営業マンで、七時におたくの応接でひとと会いたいというと喜んで手配をしてくれた。時間に受付へ行くとはやくも人気のないオフィスにTさんが待っていて、「いらっしゃってますよ」と緊張した顔で応接へと先導した。
扉の向こうで待っていたインサイダーとは、その後しばらくの付き合いになる。結局のところこれが、僕に仕事を紹介してほしいという迂遠な求職活動の一環だったからだ。それで僕は知り合いの社長に「職場の実態を告発しちゃうようなひとだけど、まぁ御社に重大な秘密がなければ」と伝えて紹介したのだが、その社長は「うでさんが間違いないひとだと言うなら」としっかり釘を刺してから採用をしてくれた。

義侠心からの情報提供には感謝しなければならなかった。しかし実をいえば僕たちもまた、その会社の買収を考えているわけではなかった。
「買収」というのはある取引先の部長から持ち込まれた提案だったが、僕たちは僕たちではじめから自分たちの都合いいように提携話をまとめようと企てていたので、相手もこちらに一杯食わせようとしているのが分かった以上は遠慮も要らなくなったというだけだった。

平河町での密談から数日後、初めて挨拶した先方の社長と僕とは、最初から最後までなにひとつ本当のことを話さないままに意気投合し、数年にわたって良好な関係を築くことになる。相手の期待からすればあまりおもしろくもないだろう規模の小さな取引をしばらくしたが、やがてそれも終わるとおたがいに商売変えの時期が来て、いつからか盆暮れの付け届けが宛先不明で還ってくるようになってしまい、それでいよいよそれっきりだった。

「買収」を持ちかけながら実際には我々を売ろうとしていた取引先の部長については、僕はかなり親しくしていた人物だったので「がっかりした」というのが正直なところだが、まぁ仕事上のつきあいというのは多くの場合こういうものだと思う。サラリーマンでも経営者でも、こういうひとの割合はあまり変わらない。この部長は数年後に精神を病んで退職し、地元へ帰ったと聞いている。いつだか挨拶させてもらったことのある、あの気の強そうな嫁さんも一緒になって地元へついていったのかどうかは知らない。

「ホリエモンはさぁ」中華のテーブルを挟んだ社長は嬉しそうに言った。「プライベートジェットが悪かったんだよな」
買収話は蜃気楼だとお互いが暗黙のうちに了解してからしばらくあとのことだった。世間ではライブドアが逮捕者を出したことが話題を独占していた。その頃に東京で「IT系」と呼ばれていた人間はだいたいがみな会うひとごとに「次はおまえじゃないの」と面白くもない冗談を言われ、「いやいややめてくださいよ」と応じたあとで何かしらライブドアの悪口を言わないと話を始めさせてもらえなかった。結局カネのためにはこういうことをしなければならないのだ。そのせいでライブドアについてはみんながポケットいっぱいに本当か嘘かわからないゴシップを詰め込んで歩き回っているような、そういう時期のことだった。
「球団買ったって女優と結婚したっていいんだけどさぁ、プライベートジェットだけはこの国ではダメなんだよ」社長がつづけていた。「プライベートジェットを買ったとたんに、『あいつはダメ、調子に乗ってる』ってことで潰される、そういうもんなんだよ、なぁ」
誰だか知らないが社長についてきて僕の金で飯を食っている隣の男がうんうん、と頷いた。
「だから孫さんだってプライベートジェットは持ってないだろう?やっぱり孫さんは知ってんだよ、そのへんを。だからあのひとは『家だけは勘弁してください』って言って家は立派なのを建てたんだよ。『私は幼いころから貧乏してちゃんとした家に住むのが夢だったんです、だから大きな家に住むことだけは許してください』って言って」
へぇ、そうなんですかと僕が応じる声がした。
「あんぽん 孫正義伝」が出るのはまだそれからずいぶんあとのことだったし、新時代のロックスターとでもいうべきこうしたベンチャー起業家たちのバックグラウンドに僕はまったく詳しくなかった。
「だからうでちゃんも、プライベートジェット買ったら逮捕されるぞ?」
わっはははははは、僕以外の全員が笑った。

あれだけクラウドだサブスクだといって、あらゆるものがオフバランスで身軽なスタイルがいちばんいいんだといってやってきたくせに、賃貸暮らしにピリオドを打って家を建てることになった。

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