介護に依存する:羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』を読んで
羽田氏は、又吉直樹『火花』が芥川賞を受賞した陰で、同年に芥川賞を受賞した。「又吉じゃない」という自虐的なポジションでバラエティ番組に出ている時期もあったから、氏のキャラクターがものすごく明るいことは広く知っられている。その明るさは、本書『スクラップ・アンド・ビルド』にも滲み出ている。
さて、同書は様々な論評の仕方があるだろうが、主人公の健斗の人間性にスポットを当てて考えを進めてみたい。
強い人間・健斗
主人公の健斗は、よくいる自己中心的な人間だ。筋トレや行政書士の勉強を通じて、自己の鍛錬に身を投げる。この過程を経て、自分こそが素晴らしい人間である、自分こそが正しい人間であるという意識を内面化する。
話は逸れるが。こういう人に限って自分の過ちを反省することができないように思う。実際、パートナーの亜美への接し方からも明らかだろう。自らの亜美への接し方を改善することなく、終始高圧的な態度をとっているように見える。結果、亜美にはそっぽむかれてしまうこととなる。
話を戻すが。自分こそが正しい人間であるという意識のもとで健斗は祖父と接するが、亜美に対する時と同様、祖父に対しても高圧的だ。87歳の自由がきかない体でありながら、自分本位で奔放な祖父。そんな祖父の言動に辟易しながら、健斗は祖父が苦しまずに死ねるよう画策する。
このように、健斗は一般的に言って強い人間であり、身体的にも弱い祖父へのフラストレーションを溜めている。それゆれか、苦しまずに死ねるよう誘導することが、孫としての家族孝行であるという歪んだ考えを持つようになる。
「強い人間」は他者に依存している
しかし、「強い人間」たる健斗の取り巻く状況は、終盤にかけ急速に変わっていく。
まず、亜美からフラれる。健斗の自己中心的な言動が災いしたのだろう。健斗は自分のストレスや性欲の吐口として亜美を捉えていた。「なんでそこまでして健斗の都合にあわせなきゃいけないの?」と吐き捨てられているシーンがあるが、やはり健斗の身勝手さが伺える。
さらに、こちらが決定的でなのであるが、祖父の介護からの離脱も決定した。無事中途採用の仕事を得た健斗は、茨城の職場に近いアパートに引っ越すこととなる。介護を必要とする人物からの離脱だ。そうすると、自分を必要とする人間を手放すことを意味する。
つまり、本作で健斗が1番依存していた他者であるパートナーと祖父からの離脱が一気に生じるのである。ここでの依存とは、エーリッヒ・フロムが『自由からの闘争』で述べた意味で捉えるとよい。つまり、自分から他者に積極的に関わることも、他者から自分を必要とされることも、ベクトルが違えど他者への依存しているという意味では共通している。
「誰にも必要とされない」「必要とする他者がいなくなった」。そんな現状を前に、健斗は自分の存立価値に向き合わざるを得なくなる。
祖父は決して健斗に対して何かを与える存在ではなかった。しかし、健斗は祖父の介護を通じて、家族孝行をすることで自分の存在価値を確かめることができていたのだ。死にたがっている人間を楽に死なせたいという思いやりを忘れることもなく。
自立し、強い人間に見える健斗も、徹底的に他者に依存しているのだ。
それゆえに祖父からの離脱も決定的な意味をもつこととなる。
介護のこれからを考えた
ここで、話は逸れるが、ここまで保留した高齢者差別の問題がある。
健斗は、ありふれた高齢者蔑視を内面化しているといえよう。
ひと昔前は、高齢者はコミュニティ内で仙人のようなポジションにあり、尊敬の念を集めていたと聞く。
しかし現在は社会保障費を圧迫する社会の荷物として語られることが多い。
自分たち現役世代の苦境は高齢者のせいだという意識が、高齢者の集団自決といった某経済学者による発言も生み出した。
健斗も程度の差こそあれ、同じような地平にいる。
しかし、本書の健斗を見ると、介護をはじめとする高齢者のケアはネガティブに語る必要がないのではないかと思えてくる。
他者から必要とされる、そのことが実感しにくい現代において、高齢者のケアはもっと積極的に意味を見出していいのではないか。
もっとも、介護をほとんど経験したことのない私がこのように書いているから、頭の中がお花畑ですね、と嘲笑されても仕方ないかもしれない。
しかし、高齢者といかに向き合うのかを考えた時、上記のような問題意識を持つことは重要である。
そのきっかけをもたらす本書は、広く読まれてほしい。