困難は成功に向けての踏み石
わたしはこのようなことを聞いたことがあります。若鷹が高い空を飛ぶことができるように、鷹は若鷹の羽毛が生えそろう時、若鷹を崖から突き落とします。若鷹は落ちている時、命を守るために懸命に羽ばたきします。つらいもがきをしているうちに、若鷹は翼を広げて飛ぶことができるようになります。しかし高い空を飛ぶためには、飛ぶことのできる若鷹はもっと残酷な訓練を受けなければなりません。鷹は若鷹の翼を折り、もう一度若鷹を崖から突き落とします。こういう時、若鷹は前回よりもっと大きな苦しみを受けます。いくら痛くても、その折られた翼で羽ばたきしなければなりません。そうしてこそ、空のもっと高いところへ飛ぶことができます。そうしなければ、若鷹が永遠に空とは無縁です。
なぜ若鷹が成長する過程の中で、こんなに厳しい訓練を受けなければならないのですか。若鷹がこのような厳しい訓練を受けてこそ、大空を飛翔することができるからです。わたしたちの一生の中で、若鷹が成長している間に経験するような苦境が多くあります。これらは、神がわたしたちを訓練して成長させるために、心をこめて用意し、按配してくださるのです。
しかし、わたしたちはこれらの困難を経験することの価値を、また、これらの困難が実は成功に向けての踏み石であることを見られないことがよくあります。だから、わたしたちは心の中で困難の到来を恐れ、困難に反発し、一生が平安で順調であることを切望し、永遠の安逸をさえ望みます。実は、このように考える人は最も愚かです。聖書でこう書かれています。「……愚か者は無為の内に滅びる」(箴1:32)。安逸をむさぼるなら、わたしたちは堕落してしまい、寄生虫になるはずであり、無為徒食の日々を過ごし、ちっとも頭を使わず、最終的に何事も成し遂げられず、一生を無駄にするはずです。
ことわざに曰く、「宝剣が鋭いのは、宝剣が鋭く研かれたためであり、梅の花がにおうのは、梅が厳寒に耐え抜いたためだ」。よい鋼は鍛錬に鍛錬を重ねて作ったものです。わたしたちが本当に成長したいなら、神がわたしたちのために心をこめて按配してくださる苦難は欠かせません。
神はわたしたち一人一人の人生のために困難、苦難を按配してくださいました。ある人たちは困難、失敗、挫折に遭うとくじけてしまい、二度と立ち上がれなくなります。しかし、ある人たちは困難の中で絶えず死にものぐるいの努力をし、何回もつまずいた後、知らず知らずのうちに強くなり、成熟して穏健になり、また圧力に耐えられるようになり、その上、勝気も、才能をひけらかす性質も幾分取り除かれました。このような人は困難を経験することによって、長く鍛錬してきた良い鋼のような存在、念入りに剪定した盆景のような存在になります。彼らは焼死した後に生まれ変わる鳳凰のようであり、翼を折られたが、青空へ飛び上がる若鷹のようでもあります。困難はかえって人に輝かしい成果を得させます。
困難は成功に向けての足踏み台です。では、わたしたちはどのように困難に直面し、困難を経験すべきですか。
聖書でこう書かれています。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」。「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(エフェ6:10、13)。「あなたは彼らを敵に手に渡し、彼らを苦しめられた。彼らが苦難の中から叫び声をあげると、あなたは天にあってそれを聞き、豊かな憐れみをもって、次々と救い手を送り、苦しめる者の手から救い出してくださった」(ネヘ9:27)。困難を乗り越えることは確かに難しいです。ある時、困難はわたしたちを阻む壁のようです。しかし、神が困難をわたしたちに与える意図は、わたしたちを阻むことではなく、わたしたちをよりよく鍛えることです。こういう時、わたしたちは神に依り頼むことを学び、この壁を越えさえすれば、成功がわたしたちを待っているのを見ることができます!
あなたが今は困難に直面しているなら、がっかりしてはならず、また失望してはなりません。わたしたちの経験するすべてのことは、神が知っておられます。彼はずっとひそかに観察しており、また、わたしたちが真心をもって呼び求めるのをずっと待っておられます。わたしたちが神に祈り求めるなら、神はわたしたちがすべての難関を乗り越え、わたしたちを阻むすべての壁を越えるのをお助けになります!
神に祈るのは、神に祈るこの3つの点を理解することはとても重要だ