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コモンルールなき世のモルモット
現代版風林火山
他人の欠点を見つける事風の如く
他人の助けを聞かぬ事林の如し
他人を炎上させる事火の如く
他人を見放す事山の如し
元ネタになった武田大膳大夫晴信公が知ったら激怒するんじゃないでしょうか(人は石垣、人は城……という言葉も彼ですので)
実質的にはこの話の延長線上だと考えてもらえばありがたいです。
民主主義のコストをケチる自称民主主義者達|紅白幕 (note.com)
わたしはここで「話し合いから妥協点を見つけていくという場の高コスト化と、高コスト化を極端に嫌う現代日本人の風潮による話し合いや議論の忌避化、作法の急速な忘却化」に対して危機感を表明し、そんなにケチりたいなら民主主義そのものをやめちまえよと皮肉を述べた訳ですが、ではその話し合いというものをケチった答え合わせの身近な一例がございますのでご覧ください。
話し合い妥協点を見つけるという行為がなくなったら、こうなります。
本当に、心底、くだらないし、どうでもいい
ただの一企業のキャンペーンがここまで大炎上するなんて、ここまでせせこましくドケチ根性が染みついたのかと呆れもします。
ただ、こうなった経緯を丹念に辿っていくと、こうなってしまったのはある意味答え合わせのようなものじゃないだろうか……と思わざるを得ません。
レディースデーという名前の販促キャンペーンは少なくとも自分が物心ついた90年代くらいには既にありましたし、それを別に差別だなんて思ったこともなければ感じた事もありませんでした。ですが、「男女平等」を最初からインストールされた人たちはそうでもないようです。
それどころか、近年の一部ツイッターフェミニストなる怪物たちの暴虐性や無数の暴言や行動が「どこが男女平等じゃ、ふざけるな」とさらなる拍車をかけていったようです。
何度もターニングポイントはありました。
そのたびに「話し合い、妥協点を見つければいいのに」と思ったものです。何度か話し合いの場は持たれたようですが、結果的に両者合い譲らずに終わり、最終的には話し合いの場すら持たれず、互いに「こっちが弱者だ」「我々こそ被害者だ」「お前は差別主義者だ」といったマウントの取り合いと化していきます。
今や、男女論界隈は宗門論争を超えた、絶滅戦争じみた様相を呈しています。まさにこれ。
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被害者中毒、やめませんか?
論理より共感性こそ重視されるSNSにおいては、被害者というポジションはほぼ無敵の安全地帯です。
それ故に、みんなして被害者というポジションに殺到します。
するとどういう事が起こってくるか?
「被害者コスプレをした加害者」
「本当にこいつは被害者なのか?」という疑い
「被害の程度を主観的に計量する権力」
という疑心暗鬼が生じてきます。
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これから数年先、揺り戻しが来るでしょう。
これまで哀れまれてきた被害者性が「お前が被害者なのはお前が弱いからだ」「自業自得、自己責任だ」と否定される時代が。
被害者というポジションがレッドオーシャンになる時代。
「舐められたら殺す」が常態化する、マッチョイズム全開の時代へ。
そうなった時に初めて気づくのだろう。あのとき、多少なりとも譲歩しておけばよかったと。