植松聖は遍在する
植松は果たして日本『社会』の闇なのか?
その前に、「植松聖って誰やねん?」という人間もいると思うので、一つおさらいしておきたい。
この戦後最大人数の大量殺人事件の犯人が植松聖という男である。
(備考・津山三十人殺しは1938年)
見るもおぞましい事件という他ない。既に裁判も結審しており、法務大臣のサイン一つで刑場に送られるのを残すだけになっている。
さて、この事件は各所に様々な波紋を生んだ。
植松が事件を起こした動機を語る度に、リベラルを自称する人間は「優生思想だ!」「ナチスの発想だ!」と批判した。保守を自称する人間は「とても日本人の発想とは思えない」とすっとぼけた。同じ自称保守が生産性で人間を測っていたが、それと発想が同じというのには今だに気がついていないようだ。
また彼はとある接見で独自の優生思想を滔々と語った上で、どうしてそのような思想を持つに至ったのかという問いに対して、「このままでは日本の財政が持たないんだ!」と激昂したとされている。
ソースがハフィントンポストというのが業腹な部分もあるが、植松が語った「このままでは国の借金で云々」という憂いの志は広く世間一般に共有されている。
いや、今では完全な常識として定着化し、その憂いに何の疑問を持たず、我々は何十年も「あっちは無駄」「これは無駄」と同じ様な議論を繰り返している。
こうなってしまっては完全に道徳である。道徳に逆らうことは許されない、貴様はそれでも日本人か!?けしからん、非国民だ!!という具合だ。
我が国では、「何某の事業に公金を支出するのは不謹慎だ!」という理屈は容易に通る。「何某の事業に公金を支出するのは不謹慎だ!」という民意が、道徳を補強する。
何十年も財務調教を施せばこうなるという事例であり、財務省は植松に表彰状の一つや二つは与えてもバチは当たらないだろう。むしろ、名誉財務省職員として顕彰し、退職金まで与えるべきだという皮肉も言いたくなる。
それを拗らせると、以下のような発想に至る。
公金を扱い使う人間は優秀でなければならない
公金にたかるのは無能の証拠
そもそも公金≒税金であり、高額納税者が偉い
公金をバラマキすぎると働かない人間が増える(労道思想)
等々。
これらが世界一治安が良いと自画自賛している日本の道徳の一部である。
リソースなるモノ
では、何故植松の如き主張が一定の説得力を持ってしまったのか。
『財務省悪玉論』にも一定の説得力はある。
権力の源泉は身も蓋もない事も言ってしまえば「武力と人事と金」に尽きる。そのうちの一つである金を完全に掌握している財務省の権力が増大するのは必然だ。
その権力がどう使われているのかというと、専ら「財政再建という御題目」に沿った緊縮財政路線に使われており、それが更に彼らの権力を増大させるというハレーションを生み出している。
財務省設置法の条文には「経済や景気」に関する業務事項は一つも記載されていない。
彼らには、経済や景気に関する責任は存在しないのだ(あくまでも日本の法律上では、の話)。
なので、「景気が悪い、経済の低迷は財務省が悪い!」と言われても「本件に関しましては、財務省設置法に従った業務を日々遂行しているからであります(意訳・そんなもん法令の条文に記載されえないから知らんがな)」という霞ヶ関文法による答弁がロジックとして成立する。
彼らは実に狡猾であり、OBやOGを様々な業界に送り込んで自分たちの省益の代弁者にしつつ、世論誘導を行っているし、OBやOGでなくとも巧妙に自分たちのシンパを増やしている。
最近では、自分勝手に操作できる民意形成の為に「リソースが足りない」「リソースに限りがある」などといったレトリックが頻繁に使われるようになったのもその一環だ。
彼らのいうリソースとは「ヒト・モノ・カネ」なのだろうが、そもそもこの25年以上に渡って、リソースを増やし続けるという努力を日本人全体でやってきたのかと言われると非常に疑問だ。
むしろ、地球環境や食糧不足といった口実でリソースの増大どころか再生産自体を否定してきた。はたまた、限られたリソースを奪い合う事に対する反応に対するメリットばかりを重視してきた。
構造改革、コンクリートから人へ、社会持続可能性、SDGs、国民の生活が第一、最大幸福社会から最小不幸社会へ、男女平等、公助から共助、新しい資本主義等々、泡沫の如く浮かんでは消えていくレトリックは変わったが、「モノやカネ」を減らし続ける事でヒトも減らしていく、という動きは全てにおいて同じだったと断じられても当然だ。
モノやカネを減らし続け、そして今度はヒトまで減らそうとしている。「リソースが足りない」という名目で。
そのリソースを生み出すのもまた人間だ、という事にゲンダイニッポンのソフィストたちは気づかない。
優生思想は誰にもある、だってサルから進化したにんげんだもの
最近のゲーム音楽の歌詞はかくの如く深いのかと驚愕した。
[歌詞抜粋]
いつかは誰しも土に還る
所詮は遺伝子を運ぶ船
こんな歌詞の曲をソシャゲのキャラクター(19歳女性)が歌っているのか…という困惑はさておき、「所詮人間とは遺伝子を運ぶ船」というのは全生物の本質を的確に捉えている。
生物というのは適者生存戦略に従い、その環境下において最も生き残れそうな優れた遺伝子を残そうとする。
それは人間においても同じであり、我々もまた生物である以上、その生存本能に基づいた優生思想は否定しようがないのだ。
同時に、我々人類はホモ・サピエンスでもある。大きくなったら大体群れから放逐され生き残った雄のみが群れに迎え入れられる猿ではない。オス同士で戦い、負けたオスの子供は問答無用で勝ったオスに殺されるライオンでもない。食い扶持を確保する為に間引きや姥捨をする近世以前でもなかった筈だ。
しかし現状を鑑みると、我が国の経済状況はこの30年近く、良化しようとしては人的要因で景気回復の萌芽を潰すという愚挙をずっと繰り返している。
民意でカネを奪い合う時代が長く続けば、それが道徳化する。結果として植松聖の様な「社会的役立たずは処分すべき」という人間が出現し、現在絶賛炎上中の某経済学者の様な輩の持論を支持する民意が出てくる。
この事件は、貧困化し動物化する日本人の平成年間の時代精神の一つの到達点だ。
植松聖は遍在する、貴方の心の中にも潜んでいる。