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「呪(しゅ)」に惑わされること なかれ

心と体にいいこと #035

夢枕獏 氏の著書「陰陽師」。
時は平安時代。
安倍晴明と源博雅朝臣の
いわばダブル主演? で
繰り広げられる話です。

その中に、「呪とは何ぞや」と、
二人がやり取りする場面があります。
「呪」は、ある種の名のようなもの、と
晴明が具体例を出して解説します。

実際に見えるかどうかではなく、
この世にあると認識できるものには、
「名」がつけられる。「名」がある。
「人の名」はもちろん、
川・石・愛・恋・気持ちなど、
どんなモノゴトにも。
言い換えると、
「名が無い」ということは、
この世にはない、
人が認識できないモノゴト
ということになる。

ざっと、そんなやりとりです。
そして、人はその「名」に、
縛られます。名が付けられ、
そこに意味が込められると、
その名と意味の呪縛を受けることに
なります。
しかも、その名を見聞きした人が、
自ら課した縛りとなります。
その人の気持ちや思考が、
その名に左右されてしまいます。
まさに、呪をかけられたかのごとく、
惑わされてしまいます。
一種の自己催眠ですね。
決して笑い事ではありません。
いや、笑い飛ばした方がいいかな?
ホントに不思議なものです。

そこで、「名」にとらわれず、
本質・本当の姿を見抜く力、
考える力が求められます。
その言葉を聞いただけ、
見ただけで、まるで呪文のごとく、
心を奪われてしまう自分・・。
その中身を自分の目で
確かめることもなく
そう思い込んでしまう。
自分の抱くその名(言葉)の
意味からの思い込み、勘違い、
錯覚も。
微塵も疑うことなく、
その名(言葉)を
受け容れてしまっている自分・・。
本当にそれで大丈夫なのか??

と、そう書きながら、我思う。
本質、本当の姿とは何ぞや・・。
そこに、本当にあるものは、
それは私にも見えているのか?
私が今見ているものは現実か?
名前が付けられないモノを
「無いモノ」として置き去りに
してはいないか?
もっとも、名前がないようなモノゴトは
存在していないのならば、
それを意識することは
難しいというか無理かも
知れませんが。

「名」「言葉」を「気」とともに
操るのは、なかなか難しいものです。 

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