散骨屋後日談3章
ヴィンス・フランシスさんの場合( San Francisco )
ヴィンス・フランシスさんはイタリア移民の子供だ。
といっても、彼の父親がイタリアから夢の大陸目指して渡ったのは
もう60年以上も前のことで、実際に両親と貨客船で
ニューヨークに着いたのはおぼろげながら覚えていたらしいが、
詳しい事は分からない。
移民の大多数がそうであるように、暮らしは厳しく、
小学校に入ったヴィンスは、その頃からニューヨークの街角で
チョコレートなどを売り、生活を助けた。
もともと利発な子供であったのと、教育に熱心な両親のおかげで、
中学、高校と働きながらでも良い成績を取り、将学金を得て大学に進んだ。
これからの産業は通信だと、専門はラジオ通信関係を専攻した。
卒業式にはガウンと帽子の上に金色のリボンをつけて。
クラスで最優秀数%以内だと特別にリボンをつけることが許されるのだが、
それを見た両親は「ヴィンスおまえは私の誇りだ」と
涙を浮かべてハグしてくれたと言う。
アメリカの大学は卒業と同時に現場の第一線で働けるように、
インターンという制度がある、インターンとしての経験を
つんでいないと卒業に必要な単位が取れない仕組みになっているのだ。
少し小柄だけどもイタリアンの特長のような天性の明るさと、
引き締まったハンサムな顔立ちは成績とともに志望会社への入社を容易にした。
今は全米ネットTV局となっているが、当時はまだ東海岸での小さなラジオ局だ。
営業として配属されブルーチップと呼ばれる数々の優良企業を
次々に広告主としていったが、反対に最初の挫折を味わう事となった。
その頃はまだアメリカでの人権運動は無く、露骨に人種による
差別が行われ、優秀なセールスマンであってもイタリア移民の
子供であれば、正当に評価されず、ややもすると、
ワスプス( White Anglo-Saxon Protestant )と呼ばれている優越人種が
トップを占め、その功までもが横取りされたりすることもあった。
苦難の時にも天性の明るさを発揮してはいたものの、疲れがたまり
胃潰瘍で入院したのもこの頃だ。
普通のアメリカ人だったら、会社での高い地位を望んでいるのに
昇給・昇格がなければ簡単に転職するのが常識だが、彼の場合違った。
戦後の経済的な成長と共に発展し続ける放送界の将来性を
見抜いていたのだろう。
不遇を囲っていたヴィンスにも時が巡って来た。
テレビ放送のネット化と共に、西海岸サンフランシスコへの
転勤を命じられた。それもマネージャーに昇格して。
それからは仕事も順調に進んだ。ニューヨーク時代に出入りしていた有力会社カイザーグループの総師に辣腕ぶりを認められ、西海岸でのTV広告を全て任されたのだ。
そしてもう一つ良い事は、カイザー社に勤務していた後に
妻となるフランセスに出会ったことだ。
フランシスはイタリア系で、それもとても慎ましやかな、
物腰のやわらかな、いつも微笑みを絶やさない美女だった。
二人の生活はまさに波に乗り、経済的な不安もなく、
サンフランシスコの郊外サウスアリートに、小さいながら
海を見渡す、バラの生垣のある家を持つ事も出来た、
心身ともに安定し、自分の歩く方向が定まった時には良い事も続く。
副社長への抜擢、長男の誕生、さらに波は大きくなり二人を乗せて
面白いようにスピードを増す。
その後、ロスアンジェルスにも移り、いよいよ西海岸総本社の副社長と上り詰める。
米国には3大ネットTV局がありそれぞれが競合する、
東海岸と西海岸にそれぞれ本社を持つ同じ社内の中でも競争は激しい。
営業の副社長としては絶大な権限があるが、その責任も大きい、
その為、彼のように長年にわたりその責を全うする事も珍しい。
それだけ、信頼を得、人望があったのも確かである。
私達は、彼の引退の時、大きなパーティーを開き、労をねぎらった。
私とヴィンスとの接点は長い。
私が日本に本社がある広告会社の米国西海岸支社を開設する為に
派遣された時、特別に請いコンサルタントとして
毎月1回時間をもらい、TV/広告関係について教えて頂いていたのだが、
それ以外に私はヴィンスからいろいろなことを習った。
ある時、定例のコンサルタント授業が終わり昼食を食べようということになった。
レストランに向かって歩いていると、
横を歩いているはずのヴィンスの姿が見えない。
あたりを見回すと、道端のホームレスに20ドルもの大金を上げているではないか。
ヴィンスは元々敬虔なクリスチャンではあったが、私は日本では
物乞いにお金などを上げる事は、その人の怠惰を助長する事になり、
いけない事だとされていると分かったような振りをして言った。
ヴィンスは少し悲しそうな顔をして「私は今までいろいろな人から
お金ではないけども、いろいろな知識だとか協力をしてもらって
今の私がある。
今私があの人にできるのは少しばかりのお金を上げる事だけだ」
私は恥じ入った。「お前にこうしてアメリカのTVや広告の事を
教えているのも同じ事なんだよ」と言いたかったのだろう。
現に当初高額だったコンサルタント料は経済状態により
3分の1から4分の1に減額そして、最後にはゼロになっても
時間を取って来てくれた。
もっともその頃はもう二人の間では何の隠し立ても無く、
言ってみれば“アメリカでの親父さん”的な存在になっていたのだけど。
教わった事は多岐にわたり、“人と同じようなことをして横並びに
生きる事は易しいけど、自分を知り、信じる茨の道を選ぶ方が
素敵だ”などと言う。内村鑑三の“生きてる魚は流れに逆らい、
上流を目指すが、死んだ魚は流される”と全くおなじではないか。
後で知ったのだけど。
また嫌味にこう聞いてみたことがあった。
「そこまでの地位にいるのだから何故トップを目指さないのか」と。
彼は、ワスプスはアメリカの大企業には歴然として残っているのも
事実だが、自分の分を知る、そして、自分の意思を明確に持ち、
何よりも良い友人を沢山持つことが必要だと答えた。
私にとって米国は異国だと思っていたが、そこに住む人の意識は同じであるのを知った。
彼は、それまで、ロスアンジェルス郊外トルカレイクという
ハリウッドの裏手に位置し、TV局や撮影所にも近い、
ボブ・ホープなどの俳優が多く住む高級住宅地に家を持っていたが
引退と共にサンタバーバラに移転した。
サンタバーバラはロスアンジェルスの約200キロ北に位置し、
キリスト教布教のミッションを中心に栄えた古い街で、
今はパームスプリングと同様に、ビジネスで成功し、引退した
お金持ちが多く住む。海に面し木や花が咲き乱れる一年中気候も暖かな所だ。
遠くなり以前よりは会う回数が少なくなってきたが海水浴がてら
訪問し再会を楽しんだ。
今度の家はフランシスが選んだせいか、彼女の性格を写したように
質素な、それでいて、回りの木立の緑が瀟洒な家の壁に反射し、
穏やかな光が辺りに満ちる、住む人を髣髴させる家だった。
やはり生垣に薔薇を巡らせ、どこかサウスアリートの家に
面影が似ていると言っていた。
そんな中、ロスアンジェルスで珍しく雨と風が強く吹き、
久々に冷えた日の夜だった。
そろそろベッドに行こうかとしていた矢先の電話は、
ヴィンスの息子カークからで、ヴィンスの訃報を伝えてくれた。
まだサンタバーバラに移って7年程で、私自身も会社を辞めて
今の会社を開業し数年は経ってはいたが仕事にかまけ、無沙汰が重なっていた。
カークは手短に、電話を切ったが、若い時に患った胃潰瘍の辺りが
癌となり、他にも転移しそれが原因である事と、葬儀の日程を言い残した。
式はレンガ作りで芝生の緑が目にまばゆい小さな教会で行われ、
会社時代の友達をはじめテニス仲間など友人で小さな教会は満たされていた。
アメリカには珍しく、既に火葬されておりヴューイングも無かった。後で知ったのだが、病に疲れた顔を見せたくないとの彼らしい配慮の遺言があったのだ。
そして遺言は続き、自分が自分らしく生きることの出来た、
大好きな街サンフランシスコの海に散骨をして欲しい。
それも、サウスアリートで住んだ家が見えるところで
Eiichi(私の名)に頼むとあった。
それからの2週間はあっという間に過ぎてしまった、手配が完全に
終わったのはつい昨日の事で、家族と極々親しい友人のみの
自然葬のはずが、結局は断る事が出来ず32名の式となった。
人数が増えたおかげでチャーターする船を2度変えるはめになり、
それぞれの船のオーナーには迷惑をかけたが、
ヴィンスの為であればしようがない。
私は船と船長にこだわりを持つ。船と船長の人柄・力量は式の優劣の大事な要因だ。
船のチャーターを決めるためには事前の面談が必要でそのためには
2度でも3度でも足を運び、決定するのが私のやり方だ。
これもヴィンスの教えてくれたお客に提供するサービスの心得の
一つで、お客さんには見えないところでの「備えよ常に」の
心構えだと確信している。
今回の船は75フィートのサロンクルーザー「パシフィックドリーム」
船長は、長年客船の船長をして太平洋、大西洋を航海し、
引退しても海の魅力を忘れられず夫婦で船に住み込んでいる
マリアーノ船長、イタリア系なのは何かの引き合わせかもしれない。
船はサウスアリートのマリーナを出港、ゴールデンブリッジを
右手に見、対岸のサンフランシスコの街は薄い霧ではっきりしないが、
ピア39の辺りは土地が低いせいかくっきり見える。
太平洋の外海の波が直接入ってくるために予想以上に揺れるが、
キリッとした空気のせいか頬が冷たく気持ちよい。
船長の合図に従い式を始め、フランセスの挨拶、船長のスピーチと
式は進み、ヴィンスの好きだった薔薇の花を投げ入れる頃には
船上の参列者の心は一つとなり、ヴィンスの永遠を願っていた。
フランセスが船尾のデッキから骨壷を海にそっと入れようとした時、
それまで低く垂れ込めていた霧が一瞬切れ、サウスアリートの
小さな家辺りを太陽の光が照らした。
乗船していた皆が驚き、互いに無言の内に「偶然だよね?」
と眼差しだけで問い掛けていた。
私は幾多の自然葬に立会い、そしていつも思う事がある。
自然葬を行い、後で故人を思う時どうして、彼や彼女の辛く
悲しい時代を吹き消し、楽しかった事だけが記憶として
心に留まるのだろうか?
多くの遺族の方々もそう言う。
冗談ではなく「水に流す」事と関係あるかないかは分からないが、
私達の住む大きく、そして素晴らしき地球、
その3分の2を占める海に戻る時、
それまでの試練は小さいものとしてすべて開放される
ような気がするのは私だけなのか?
時としては牙をむく今は穏やかな青く澄んだ海が
「もういいんだよ、さあこれからは、ゆっくりしなさい」
と言っている気がするのは。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?